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テーマ:海外生活(7773)
カテゴリ:ヘンリのヒトリゴト(コラム)
「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」 3月半ば、場所はルソン島の真中ら辺、世界遺産の棚田が有名な地域であるボントック(Bontoc)を訪れた。 ボントックはバスの中継地点としてだけでなく、この辺りではやや大きめの町として栄えている。 そのボントックから更に、ジプニーで1時間半の場所にあるマイニット(Minit)に、僕は足を運んだ。 (ジプニーとは、米軍のジープを改造して作ったバスのようなもの) マイニットには、たった1つしか宿がない。 しかも、いつ開いてるかは神のみぞ知る(だから要予約!)。 そこの宿のオーナーであるフィリピン人の老夫婦と話をしていた。 その時に出てきた言葉が冒頭のものである。 「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」 「そうだね、あっはっは~」 ・・・・なんて言えやしません、とてもじゃないですが。 いやはや、なんともセンシティヴなお言葉である。 さて。皆さんはフィリピンの歴史をご存知だろうか。 かく言う僕だって、よくは解っては居ないのだが、 後から関係のある部分を、ちょっとだけ説明しよう。 16世紀からスペインの植民地だったフィリピン。 19世紀末には、米西戦争によってアメリカが領有することになった。 そして、第二次世界大戦中の1941年の暮れに日本軍がフィリピンに上陸し、その占領は1945年まで続く。 (補足だが、1945年後はアメリカが、フィリピンを政治的・経済的に牛耳っている。 それが現在でも続いていることは、米軍基地とビーチ近くのバカでかい米国大使館などが象徴している) 大戦中に日本軍がしたことは、我々が知っている事とさほど変わらない。 従軍慰安婦として働かされた。 日の当たる浜で、日中立たされたままにされるなどの拷問を受けた。 食料と言う食料が奪われた。 食料を出すことを拒んだり、食べ物を隠し持っていたことがばれると、村中の人が殺された。 悲惨な戦争体験である。 実際に出会った人たちから、以上のようなことを、僕は聞いたのであった。 つまり、フィリピン人は、「身近な経験」として、世界大戦中の日本軍がやったことを知っているのである。 (写真は「バターン死の行進」のモニュメント。 日本軍が大戦中に、捕虜を100km超の距離を炎天下の中で歩かせた。) だが、それにも関わらず、冒頭の発言なのである。 特に中韓の紛糾のために「日本はアジアの嫌われ者」なんて考えていた我々には信じがたいものだ。 (あらかじめ言っておくが、だからといって「太平洋戦争は間違ってなかった」とかそういうことを言いたいわけではない。この辺りは後編に) 「もし日本が世界大戦で勝ってたら、フィリピンはもっと発展してたのに」 と言った、ホテルのおばあちゃん。 実は、彼女は日本軍占領下で小学校教育を受けており、 日本の言葉も、挨拶だけは覚えていた。 「この地域は戦闘が激しくなかった」とは言ってはいたが、 それでも占領軍である日本が勝ってたら、と言うなんて、容易には信じがたい。 そして、もうひとつ。 これもマイニットでのことであるが、 たまたま小学校に迷い込んだ僕は、そこで5年生担当のパスパス先生と仲良くなった。 彼からも、こんな話を聞いた。 小学校の勉強の一環で、「占領が何をもたらしたか」という比較を生徒同士で議論したらしい。 前述したように、フィリピンはスペイン、アメリカ、そして日本に占領されてきた。 それぞれの占領によって、フィリピン人の生活がどう変わったのかを話し合うらしい。 そこで小学生たちが出した日本の占領の特徴は、「発展」だったというのだ。 現在の台湾・韓国の発展は、日本が占領したことによるものだ、という推察から。 教育者の彼もまた、「日本の占領がもっと長ければ良かった」と僕に言った。 彼も祖父母から、「日本軍が通った時に、頭を下げて挨拶しなければ暴力を振るわれる」 といった話を聞いているというのだが。 歴史の捉え方ってのは、本当に難しいものだと感じた。 では、なぜフィリピンでは日本がそんなに良いイメージなのか。 ・・・・・・って所は後編に続く。 --------------------- 余談であるが、 「占領がもたらしたもの」ということで、『現代フィリピンを知るための60章』にはこうある。 スペインは、カソリックをもたらし、悪魔の虜からの解放をした。 アメリカは、民主主義と英語をもたらし、スペインの圧制からの解放をした。 日本は、アメリカの帝国主義からの解放をした。 二度目の占領でアメリカは、日本のファシストからの解放をした。 ご参考までに。 -------------------- 歴史つながりってことで、もいっこ余談。 台湾にも僕は行った。 そこで「台湾故事館」という元世界一高いビルの地下2階を訪れた。 館長の幼い頃を再現したというその場所は、 「昭和レトロ館」と言っても、誰も疑わないだろう。 そこには、懐かしい日本そのものがあった。 駄菓子屋に、料理屋に、教室に、貼り紙に、ポスターに。 昔の日本と寸分違わない。 「占領の名残り」を感じざるを得なかった。 一緒に行った台湾人の友達は、どんな気持ちだったんだろう、と思ったが、 彼女もまた「懐かしい風景」と呟いていた。 ごめん、という言葉が、心で反響した。 ちなみに。 台湾故事館のパンフレットは、台湾語と日本語のみで、英語が無かった。 <過去の関連日記> フィリピンを訪ねて (0)「はじめに」、 (1)「笑顔の理由 ~見えない貧困~」 へんりのヒトリゴト 日中考 1/5 謝罪について ~ODA is just ODA~ 日中考 2/5 歴史の教え方について ~歴史は政治だ~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 16, 2006 10:42:42 AM
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