|
テーマ:旅のあれこれ(10281)
カテゴリ:ヘンリのヒトリゴト(コラム)
親愛なるへんりさま
あなたからの手紙を受け取りました。 本当に驚きました。特に、あなたが送ってくれた写真に。 めいっぱいのありがとうを言いたいと思います。 あなたは、「約束を守る人」ですね。 あはは。もちろん、僕はあなたのことを覚えてますよ。 どうやって忘れるって言うんですか、ユーモラスな上に、知的なあなたを。 あなたとは、ほんの短い間しか接していませんが、 意見を交換し合うことができた、実りある時間でした。 僕の学校の生徒たちにあなたの送った写真を見せますのでご安心を。 生徒たちはきっと大喜びしますよ。 あなたが、卒業して仕事を得たと聞いて嬉しく思います。 今、あなたは夢見たものを実現しているのですね。 きっと、あなたの国では就職することは、それほど難しくないと思うのですが、どうですか? 僕の国では、仕事を探すのが本当に難しいのです。 僕の場合で言いますと、卒業したのは1995年ですが、小学校の先生として働けたのはほんの5年前(2001年)です。 僕の弟と妹も4年前に大学を卒業しましたが、いまだに職がありません。 彼らは言います。 「希望を失わないでいよう。信念と共に歩もう」 そうなんです。 失業や過少雇用(under employment)が、僕の国の大きな課題なのです。 だから、多くのフィリピン人が海外で働きに行くのです。 僕の友達のへんりへ。 手紙をくれて、写真を送ってくれて、本当にアリガトウ。 お体には気を付けて。 Dolfo ---------------------------------------------------------------- フィリピンから手紙がきた。 スタディツアーの後、少しだけ残って一人旅をした時に出会った小学校の先生Dolfoからだ。 (前の日記にも出てきたパスパス先生のことである) 長距離バスが行き交うBontocという町から、ジプニー(ジープを改造したバスのようなもの)で1時間半離れたMinitという村がある。 ジプニーは1日2本ずつ。 町のBontocからMinitの村へ行く便は、夕方前に2本。 村のMinitからBontocの町へ行く便は、朝に2本。 つまり、村に泊まらない限り、ジプニーを使って往復はできない。 山の中の、一本の道を歩いて、僕はその村に行った。 片道4時間だ。 「のどか」という言葉がぴったりの、山の斜面にある村だ。 たしかに、ここでは職業の選択の幅は大きくない。 店は一軒も見当たらなかった。 ここで採れる米も、商業用ではなく、自分たちで食べるためであるらしい。 ここで出会った子ども達の親は、どんな職業に就いているのだろう? そして、子ども達は、どんな職業に就くのだろう? この村の山のふもとはBontoc。やや都会じみた町だ。 そこで泊まった宿で、受付のねーちゃんと、その友人と話した。 彼女たちのうちの一人が身の上を語ってくれた。 彼女は以前、首都のマニラで働いたことがあるらしい。 だが、そこでの生活は悲惨なものだった。 夜遅くまで働いて、小さな部屋に戻り、朝早くからまた働く。 それでも給料は貯金が出来ないほどの額しかもらえない。 「これでは病気をしたら、お終いだ」 そう思って、彼女は再び、Bontocに帰ってきた。 「この国じゃ、大卒だってろくな給料を貰えないのさ。 だから、皆、海外に行きたがるのよ。 そうだ! ねぇ、あんた。日本へ帰ったら私を呼び寄せておくれよ。 エンターテナーは勘弁ね。工場で働きたいわ」 そんなチカラは無いよ、と、僕は笑って誤魔化した。 このBontocに来る前には、Banaue(バナウェ)という町に居た。 だだっ広い棚田が売りの観光地である。 そこは、歩くには広すぎるのでトライシケル(サイドカーつきのバイク)が移動手段になる。 案の定、長距離バスでBanaueに着いた時、トライシケル乗りがやかましく寄ってきた。 まともそうな若者だ。 どっちに行けばいいかも解らないし、ということで、彼のトライシケルに決めた。 僕を乗せると、エンジンをかけずに坂を下った。 なぜエンジンをかけないのだろう?と疑問に思っていたら、ガソリンスタンドに着いた。 そこで給油して、初めて、エンジンをかけた。 ビューポイントまで連れて行ってもらう。 そこで、彼から話を聞いた。彼の名はマルコ。 マルコは9人兄弟の長男である。 家族のために稼がなくてはならない立場にある。 見るからにガタがきているマルコのトライシケルは、 1日150P(約300円)でレンタルしたものだった。 12月から4月はこんな風に観光の仕事があるが、雨季の6月などは仕事がなく、 近くの町へ、日雇い労働をしに行くらしい。 「海外就労に憧れる」 英語がペラペラで、学歴もあるマルコだったが、 トライシケルドライバーしか職を選択できなかった。 しかし、まだ、職があるだけいいのだろう。 「いい」と言うには、あまりにも不安定だが。 彼の兄弟もまた、仕事がないという話だった。 3日前から振り出した雨で、ドロドロになった山道を オンボロのバイクで、金持ちの国から来た学生を案内する。 マルコは、どんな気持ちだったのだろう? 仕事とは何か。 「夢を実現するためのもの」? いや。 そんな崇高なものじゃなくて、 「ただ、生きるために必要なもの」? どっちが正しいとかじゃない。 ただ、思う。 日本では、生きるために仕事をするってことが すごく、蔑まれてるように、 そんな風に感じる。 フィリピンでの出会いは、僕に何を残したのか。 そこでの出会いを綴ったこの文章は、読む人に何を与えるのか。 日本に住む自分たちに重ね合わせるべきか。 日本以外に国の人たちに思いを馳せるべきか。 今は未だ、見えていないのだけど。 ただ、ありのまま、書いてみることにした。 聞いたことを、 感じたことを。 フィリピンの出会いから、2ヶ月が過ぎた。 <フィリピンを訪ねて> (0)「はじめに」 (1)「笑顔の理由 ~見えない貧困~」 (2)「それでもフィリピン人は日本が好き ~許された国~」(前篇) (3)「それでもフィリピン人は日本が好き ~許された国~」(後篇) <お知らせ> 来週月曜、僕と一緒にツアーに参加したメンバーによる報告会があります。 (僕は参加できないのだけど) 場所: 立命館大学衣笠キャンパス存心館 日時: 5月29日(月) 16:30~ 問合せ先: ACCE事務局 Tel:075-643-7232、e-mail: acce@sannet.ne.jp お時間がある方は是非! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ヘンリのヒトリゴト(コラム)] カテゴリの最新記事
|