真理を語る者でなく、真理の中で生きる者
真理が語られている、イコール、その人が真理の中に生きている、ではないことを感じることがあります。どんなに立派に聞こえる証でさえも、真理がもっともらしく話されることの中にも、いのちから生じていないものがある。なんともいえない粘着性と重々しさに満ちている。 「この世界の霊を受けたのではなく、 私たちは、神からの霊を受けたのである。それは、私たちが 神によって私たちに恵みとして与えられたものを知るためである」 コリント第一2:12 神からの霊によって私たちは、その証が神から生じたものであるのか、またこの世の霊から出ているのか、判断ができるいのちが与えられている。 ゆえに、なぜだか理由はわからないが、いのちから出ていない証に対して、聞いているだけでめげてしまう。主が栄光を受けられる証は、 「彼らがわたしの喜びを満ち溢れるものとして自らのうちに持つ・・」 ヨハネ17:13 という御言葉が、私たちの経験となって、豊かに結ぶ実となり、交わりそのものの中からいのちがあふれ出す。 真理を語るものではなく、真理の中に生きているものでありたいと思うのです。