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ひよきちわーるど

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2005.11.24
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カテゴリ:I love family


夫と交際を始める前
私には他にお付き合いをしている人がいた。






大学構内の誰も通らないような小さな道。

そこにひっそりと咲く可憐な百合。



・・・おそらくは 相手もこのことを知らないだろうから
早速教えてあげようと思っていると
相手もまた、全く同じことを考えていた。

そんな細やかさを持ち合わせていた人だった。

趣味も好みもほとんど同じで
こちらが「あれ」と言えば「ああ、あれね」で悉く通じてしまう。






それほどに何もかも共通していたというのに
それでもそのお付き合いは、ほんの短い期間で終わってしまった。




お互いに嫌いになったわけでもない。

ただ、上手くはいえないのだけれど
何かが違っていた、としか言いようがない。









夫は 間違っても、
秘やかに咲く百合の花に気づくような人ではない(笑)。

百合に気づくより前に おそらくは木に掛かる蜘蛛の巣を見つけ
「とれたての蜘蛛の巣やで~!」と子どもみたいに喜ぶだろうし

蝉の抜け殻をいくつ見つけることができるだろうかと
ほっといたら木に登って探しかねない、そんな人なのである。




彼は文系の人ではない。
理数系である。

私が万葉集の話をしていても、途中で眠っている(笑)。





花の名前も一向に覚えない。

いや、彼の頭の中には 
おそらくは多くの花の名がインプットされてはいるのだろうけれど
(私がよく花の名を話題にしますのでね)

彼の中においては その花の名と
実際の花の姿とが、全く一致していないのである。




庭に咲く苧環に向かい
「おお!水仙やな!きれいに咲かなあかんで!」と激励し

何やら露草とオオイヌノフグリとがごっちゃになっているようだし

鮮やかに咲く朱色の百日紅の花を見て
「みゆきち、あれは薔薇やで。」と愛する娘に教えている。



このまえなぞ
稲美町の万葉の森公園に行ったならば

慎ましく咲く石蕗の花を見て



「・・・タンポポの仲間やったな?」



などと問いかけてきた。













彼の文章は どことなく無骨で荒々しい。

流麗な文章ではない。




確かに 彼の文章を読んで
美しいと感じることはそう無いのだけれど

けれど
愛しい、と思う。







元来 私は流麗な文章はさほど好きではない。

これでもかと
美しい言葉の立ち並ぶ文章には辟易し
遠ざかるようになる。





平淡なものであっても
胸をつかれる、そんな文章にどうしようもなく惹かれる。












夫の人柄は 彼の書く文章そのままではないかと思う。




確かに夫とは 
自然の美しさについて語り合うことはあまり無いかもしれない。

公園に行っても何処に行っても
見る物、関心を持つ物が悉く違っている。


趣味も好みも全く異なっており、
私たち2人に共通していることは
おそらくは「現住所」だけではないか(笑)と思うことさえある。








それでも17年前
私はこの人と一緒に生きていくと決めた。

何がどうなってそのような結論に到ったのかはよく分からないのだけれど
ただ、この人とならば
永遠に一緒にいたいと思った。






今世では夫婦という形ではあったとしても
次の世ではどういう形になるか分からない。

(こ、ここだけの話ではあるけれど
 私は来世、男性として生きてみたいと願っている。)

なので、夫にその旨報告し
来世はあなたが私の妻として生きていく番だ、と告げると
あっさり却下されてしまった。

彼も、来世は男性がいいそうだ。





それでも私だって男性として生きてみたい、と駄々をこねると
彼は「勝負やな。」と言って にっと笑う。

今世において祈りの強かった方が
来世、めでたく男性として生まれてくるのだと言う。




と、なんですか。

今世、私があなたの妻として生きているということは
過去世における私の祈りが断然弱かったということですか。

つまり 勝負に負けてもうたということですか。





悔しい(笑)。
来世、リベンジです。














私自身、生命は永遠だと思っている。
生まれては死にを繰り返すと考えている。



今度生まれてくるときには どういう形であるにせよ
今世において私の夫、そして娘となってくれたこの2人にもう一度出逢いたいと思う。

次に出逢うときには もしかしたら親友かもしれない。
親子かもしれない。

どういう形でもいい。
ずっと一緒にいたい。








私自身、仏教徒である故に
やはりこの世は修行の場であると考える。

修行と言っても難行苦行のことではない。




生死を繰り返し
多くの悲しみ、苦しみにぶつかり煩悶するなかで

それでも強く生き抜いていく姿を示すことが
信仰をもつ人間のつとめではないかと考える。






愛する家族である故に
絶対に失いたくない存在であるが故に

それらを失ってしまったときの自分の悲しみ、苦しみを思うと
いても立ってもいられなくなる。

想像するのさえ怖いのだ。











宿習深く 家族となった私たち。

お互い、喜びを分け合う日もあるだろう。
悲しみを与える日があるかもしれない。



けれど 家族によって与えられるその悲しみは
自身の生命を鍛えてくれるのではないかと思う。

愛する家族を失い悲嘆にくれたとしても
その悲しみはやがて 他者に対する深い共感へと繋がっていく。

同じ悲しみに暮れる他者の気持ちに
理屈抜きに寄り添うことができるのだと思う。







自身が先に逝くようなことになったときでも
最期まで気に掛かる存在であり
よく言われるところの「死ぬに死ねない」気持ちになるのも
家族という存在があるが故である。


そして逆に 自分が愛する人を見送らなければならなくなり
悲しみに沈み、夜も眠れなくなり
おそらくは弱い私のことである、長い間再起不能になるだろう。

生きていることさえ辛いとこぼすかもしれない。

眠っている間だけでもこの辛さを忘れることができると思っても
その眠りさえも 私の元を訪れてくれないだろう。









生きているときにも
そして逝ったあとも

お互いの心に
深い跡を残す存在、家族。






生命の奥深く
呼び合うものがあるからこそ

生死を越えて
強くつながっていくものなのだろうか。








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Last updated  2015.12.21 23:44:34
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