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カテゴリ:摂食障害
ゆっくりと、しかし確実に秋は深まっている。
夜は涼しさを通り越し、寒いくらいである。 優しい風は何処までも優しく、 時間の流れをゆったりと感じさせる。 最近は病症に振り回されて、 疲れてしまっている。 心の機微が感じ取れず、 唯々沈鬱で、暗澹たる気持ちがそこにある。 毎日同じ事の繰り返し・・・。 病気を山道として考えると、 ぐるぐる同じ所を回っている様でも 確実に上って行っていたり、 下って行っていたりしているのである。 だから毎日どこかに向かって 進んでいる事は否めない。 しかし見える景色はいつも同様で まるで出口の無いトンネルを彷徨っている 感じがするのである。 『時間が来たら過食して吐かねばならない』 『終わった後は野菜ジュースを飲んだり糖分補給をせねばならない』 『後片付けは完璧にしなければならない』・・・ 夜になれば毎日これの繰り返しで、 真っ暗闇で出口の光さえ見えないトンネルを とぼとぼと歩いている感じがする。 病と言う山道を下りきった所で 何が待っているのであろうか。 トンネルを抜けた所で そこは光に満ちた世界なのであろうか。 これはきつい勾配の山道を無灯火で 夜中に走っているような不安感と 橙色の薄明かりしかない、車通りの多い 道々を歩いている飽く様なうんざり感が 生まれ出てくる。 強迫観念に因って、過食衝動が誘発される。 それに抗う事は心身に激しい負担を強いる事になる。 自分で自分をコントロールしようなんて思ってはならない。 これは病気で仕方の無い事なのであるから。 勿論ある程度の自制や抑制も必要である。 しかし、病気をコントロールなど出来る筈も無く、 後々痛い目を見るのは自分なのである。 こうして苦しんでいる時こそ、 母が優しく見守ってくれている事が とてもありがたく、温かく感じる。 また、主治医の言葉は厳しくも温かいので 慮って下さる事に感謝の意を覚える。 こちらが心を開く事によって、 主治医も心を開いて対話して下さり、 診察は長時間であるが、何か生まれるものがある。 心が揺り動かされ、前へと背中を押して下さる 感覚もある。 いつまでも留まっている訳にはいかない。 半歩ずつでも歩みを進められると、 揺り返しもあり後退する事もあるけれど、 勇気に繋がるものである。 自暴自棄になると、 「どうせ人間は生まれた限り死ぬだけだ」 と言う究極の虚無に陥る。 そこで、生きている事を引き受けなければ、 生きている意味さえ分からなくなるのである。 宇宙規模で見ると人間の一生なんて ちっぽけなものに過ぎないが、 生まれて死ぬ間には多様性があるのである。 しかし、無理をしてまで人生に意味を込めなくて いいのである。 そんな行ったり来たりの毎日でも、 日々発見があったり、気付く事があったりする。 そして目標さえ立てられるような気持ちに なる事だってある。 例えば1日2回の過食嘔吐を1回に減らしてみるとか、 自己嫌悪、自責の念と自分を攻め抜く力を和らげる等、 生きていくのであれば様々な事があって当然なのであるから 偶には前向きの目標を立てても良いであろう。 しかし、疲れ切っているときは無理をしない事が大切である。 自分しか自分を慰め労わる事は出来ないのであるから、 身体を休めるのも必要不可欠である。 『嗚呼、今日もお酒が美味しい』と思える事だけでも 心が休まる瞬間として受け止められる。 兎に角無理をしたり自暴自棄になっては 全てが台無しになってしまう。 だから自分のペースを掴み、先ずはゆっくりとしたペースで ぼちぼち歩けたならと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.25 20:45:47
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