花咲いたような、笑顔。
日々、寝付きが悪くなっている。きちんとお薬を服用してお蒲団に入り眠る準備を整えてもこころがざわつくのである。そしてそれは、自暴自棄を呼ぶ。強いお酒を飲んでやろうとか自傷しようかとかそういった事であるが後々しんどいのは目に見えているのでお薬を追加するようにしている。そして漸く、眠りに落ちる。眠るまで、ニュースを観ている。今日は、某世界的有名建築家の葬儀告別式の模様が流れていた。そして、出棺の際クラクションを鳴らした音を聞いた時、不意に妹の大親友の葬儀告別式の事を想い出した。まるで、想い出さない様に大切な箱に仕舞っていた想いが溢れ出す様に。3月、まだまだ寒いよく晴れた日だった。前日に末期の水で彼女の唇を湿らせた事も記憶に深く刻まれていたのに、まだ信じられなかった。葬儀場に到着して彼女の笑顔がたたえられた遺影を見て、私はそこから涙が止まらなくなった。そして沢山の想い出が次々と映像として頭に浮かんだ。その情景が今朝、甦ったのである。声を殺して、泣いた。未だショッキングな事として私のこころに焼き付いているのだから妹にとってはもっともっと辛い事なのであろう。妹の苦しみを想い、また何も出来ない自分を憎み涙は止まらなかった。泣きながら、私は意識が途絶えた。その間にも、どうして彼女の“生きる苦しさ”“死んでしまいたい気持ち”に気付けなかったのか、凄く後悔している。いつも通り日中をやり過ごした後、スーパーへ行く時妹達が役所の煩瑣な手続きの為家に来る事になった。母も私もスーパーへ行く頃だったので妹と姪っ子、彼氏が一緒にスーパーに来た。昨日から妹の事を考えたり妹の大親友の事を考えたりしていたのでその偶然が温かかった。姪っ子は、本当に元気いっぱいで好きな男の子が出来たと一生懸命私に伝えてくれた。その後も、「ねーちゃん、ねーちゃん、 このおもちゃ面白いんよ!」と私を呼び寄せくっついてきてとても微笑ましかった。姪っ子の笑顔は、草花も枯れていく秋なのに春先に咲く花のような明るい雰囲気を醸し出している。姪っ子を見ているだけで仄暗い気持ちなんて忘れてつられて私も笑顔になれる。少しお行儀が悪く母親である妹の言う事も余り聞かないけれど、自由奔放で可愛らしくて元気いっぱいの姪っ子は私にとっても宝物だと感じた。姪っ子の成長を見る為にも生きていきたいと想えた。閑話休題。摂食障害について色々と考える1日であった。この病は、複雑なものである。見方を変えれば簡単なものとも言える部分もあるが、それは余りにも一元的な見方で物事の本質を考えていない感じる。「食べるな。」「吐くな。」「吐くくらいならそんなに食べるな。」と言われて止める事が出来ていたらアメリカで800万人以上もいる罹患者は直ぐに治るであろう。やはり、この病には1人1人違う環境があり、違うこころを持ち様々な考え方や、様々な苦しみがあるから“こうすれば治る”といった治療法は定まっていないのであろう。摂食障害は、“社会の病”でもある。痩せている事を良しとされる風潮、TVに映るモデル達の細さ。それに似合う洋服。体型に対する差別。そういった情報が氾濫していていつの間にか私は、「痩せていなければならない。」と思い込むようになった。だが、問題がそれだけであれば異常な行動はしていないであろう。こころにぽっかり空いた穴を埋めんが如く食べ物を食べる。でも、こころは埋まらないし太る恐怖から戻す。「何故私は、食べて吐く事に依存しているのか。」そういった問題も見えてくる。痩せる事だけを目的にしていたのに、私はいつの間にか過食と嘔吐が優先となっていた。普通の人にすれば「自己管理の出来ない怠け者、甘えた人間。」として映るのであろう。だが、違うと私は想う。病症をなぞらないではいられない気持ちが其処には存在しているのである。いつか、治さねばならない。だから、生きている。「生きる為に治す。治す為に生きる。」これを先ず、考えねばならない。私は、うつ病を患っている人が「甘えている。怠けている。」とは決して想わない。病気なのである。また、うつ病は投薬治療で癒せる可能性が高い。摂食障害は、こころを落ち着かせるためにお薬を処方される事はあるけれどやはり治すのは自然治癒力という自分の力なのである。治す為には、それなりのパワーが必要なのである。だから主治医は“きちんと休養する事”を第一に勧める。体力とこころの力。それらが伴って初めて治していこうと想えるのではないであろうか。だが、これもまた毎日毎日生きねばならないという“苦しさ”そして毎日、病症に追われる“虚無や辛苦、哀しみ”に疲弊していく。私が強く想うのは、「甘えるのは悪くない。」という事である。無論、甘え方は考えねばならない。依存したり、病気に甘んじたりする事とは異なるものである。辛抱するには、サポートが必要である。弱りきっている病人に対して辛辣な言葉だけ投げつけても病が治るとは言えないと考える。1人1人のスタンス、ペース、リズムを大切にして病を治そうという想いを少しずつ強めていく事が、必要なのであろう。だから、一元的に病を見るのは止めたい。複雑化させる必要も無いが、こころは一言で言い尽くせるものでなくやはり錯雑なものであるからこそ、一番大切にせねばならない。だから私は、信頼の置ける主治医と支えてくれる母や家族と共にいつか病は治ると信じ生きていきたいと想っている。久し振りに会った姪っ子はまた背が伸びていたようである。4歳だから、語彙も相当増えて自分の気持ちを表現する工夫をしていた。そして仕草が何とも可愛いと想った。無邪気な姪っ子と話していると自分のこころも、まるで洗われていくような感じを覚えた。大人になって忘れていく素直さや純粋さを学ぶような気持ちになる。今日、姪っ子が咲かせてくれた花は暫く麗らかに、こころの中で広がっていくであろう。