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カテゴリ:うつ
普段、私は1日1回外出する。
それは食べ物を買いにいく時である。 夜空を見上げ、外の新鮮な空気を吸い込む。 冷たい空気が身体を冷やしていくが、 それもまた心地良い。 空を仰ぎ、星を数えたり星座を見つけたりする。 そして背筋をぴしっと伸ばして すたすたと歩いていくのである。 起床してシャワーを浴び、 熱いミルクティーを飲み一服して、 スーパーへ向かい帰ったらブログを綴り、 終わったら過食を始める。 この様にしてスケジュールを自分の中に きっちりと無駄なく組み立て、 その通りに動く事で 嫌な事を頭の中から排除して それぞれの行為に没頭する。 私はそうする事で、こころの均衡を 図っている部分が否めない。 少しでも“やらねばならない事”の 順序が狂ってくると、焦りを感じる。 所謂『強迫観念』で組み立てた 行為に、『強迫行為』として 従っている。その方が幾分苦しいことはあっても 余計な事を考えないで済む為 楽なのかもしれない。 閑話休題。 私は小学生低学年の頃から、漠然と 「消えたい。死んでしまいたい。」 と想っていた。勿論その頃は思慮も浅く、 毎日の躾と称した打擲や孤独感から 逃れる為には死ぬか消えるかしかないと 想っていたのである。 そして私は小学5年生の頃、 母が手首を切っているのを目撃した。 包丁で手首から腕にかけて切り刻み、 妹の勉強机で夕闇の中、間接照明だけで 浮かび上がる母の姿があった。 そのときの衝撃は計り知れない。 そっと母の元へ行くと、 涙をぽろぽろと流しながら 「消毒液、持ってきてくれる?」 と私に言った。 それしか出来なかった。何も声を掛けられなかった。 それに対して鋭い無力感を覚え、 脱力した。 その日を境に、自分の死に対する想いが膨れ上がり いつでも死ねるように首を吊るロープを枕の下に 隠して眠っていた。 寒い夜空の下を歩きながら、 私はそんな事を考えた。 「ああ、あんな頃もあったな」と。 今は、摂食障害の症状とうつ病の苦しみとで 『もう死にたい』とは偶に想う事はあっても それを実行に移すような余力は無い。 今を必死で生きているのである。 自分の組み立てたスケジュール通りに過ごす事で 精一杯である。 子どもの頃、漠然と『死』を願っていた時、 自分の存在自体が疎ましく、 「消えてしまえれば楽になる。」「全てが終わる。」 と軽く考えていた。 しかし大人になってからの死に対する想いは とても重く、 「私さえいなくなれば家族皆幸せに暮らせるのでは・・・。」 「生産的なことを何もせず、ただ消費するばかりの 役立たずの自分等消えてしまえば良い。」 と自分の存在自体を全否定するものとなった。 けれどもこれは、『うつ病』の症状がそう想わせて いる事は確かである。 摂食障害の症状も辛いが、 この『うつ』に対しても ふっと落ち着いた状態を取り戻し、 苦しければお薬の助力を借りて 横たわり心身を休めるのも肝心な事である。 空を仰ぎながら夜道を歩いていたら、 煌く星が美しかった。何万光年も先から光を届けている事を 想うと、何とも言えない不思議な感覚に陥る。 スーパーでもクリスマス用に装飾が始まった。 季節感が流麗に広がっていく。 天邪鬼である私は、「何が楽しいんだか」と 口走ってしまうが、こころの中ではほんの少しだけ わくわくしていない事もない。 「クリスマスの夜は鳥を焼こうね」と母と話す瞬間も 温かさを呼び寄せるものである。 もうクリスマスと誕生日のプレゼントとして ドラマのDVDを購入してもらえたので 満足している。 当日は母と2人・・・もしくは妹と姪も 家に来るかもしれないが、 いつもと違うメンバーで食卓を楽しく囲むのも良い。 小さな楽しみを見出す事が、今の私にとって とても必要なものと感じている。 そして心身をゆっくり休めて、今この瞬間を大切にして 俯いた顔を上げてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.12.11 20:33:46
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