テーマ:囲碁全般(743)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
仲邑菫初段の入段が、囲碁界に一つの注目を集めさせているようです。
仲邑初段と「女流世界最強」崔精九段の碁は見ましたが、棋譜を見る限り「元気いっぱいではあるものの実力差が大きすぎないか?」というのが正直な所感です。 もちろん、世界戦での日本の惨敗ぶりを考えれば敗北自体は予想の範疇であり、仲邑初段もそれは分かっているかと思います。 井山裕太でも日中桐山杯で古力に手も足も出せなかったような時代を経て今の地位にいる訳ですから、ここからの成長に期待すること自体は十分可能だと思います。 プロ試験制度という視点からの批判もありますが、私個人は英才枠制度自体は否定すべきものとは思いません。「囲碁界にどのように役立つか」で決められるというのは一つの在り方と考えるからです。 ただ、棋士採用がほぼ棋力一本で行われている現在のプロ登用制度の中に英才枠を盛り込んだので、ちぐはぐな印象を与えます。 囲碁界発展のためにさまざまな視点からのプロ登用制度は一つの在り方(全面賛成という訳ではないですが、制度設計として一理あると感じる、程度に考えてください)と思うのですが、プロ登用制度全体の中でどのように位置づけるかしっかり考えないと単なる恣意や不公平になることも考えられます。 せっかく鳴り物入りで入段した「英才」が見るも無残に連敗し、入段時点が棋力の限界で気が付けばしがないプロになっているのでは、意味がありません。 …さて。 やや後ろ向きな話になりますが、仲邑初段のような早期入段は,しばしば英才登用制度として扱われますが,個人的に思う「早期入段のもう一つのメリット」を指摘したいと思います。 それは,「早期にプロを辞め、人生を設計し直す」という選択肢が生じることです。 「プロ前の期待値」と「プロとしてどれだけ活躍できるか」は違います。 プロもピンキリであり、タイトルに絡める、あるいは国際戦などで存在感を出せるような地位に一度でも行ける人は本当に僅かです。 「現在形でタイトルに絡む棋士」まで絞ると更に僅かでしょう。数えてませんが、2,30人に一人と言った所でしょうか。 そして、新初段の頃は鳴り物入りで期待されまくった(新初段シリーズの記事がちょうちん持ちすぎる気もしますが)新初段が、タイトルや挑戦者になるでもなく、たまに本戦にちょろっと顔を出すか、それすらないしがない中堅棋士となり、結局囲碁指導などの普及に軸足を移している…という例は、心当たりがあります。 プロになった時点でトップ棋士と互角、棋戦でもいきなりリーグに入るくらい好成績なんて将棋の藤井聡太のような例は奇跡です。 成功の定義はまちまちかもしれませんが、「絶対成功するメソッド」「絶対成功する人を見極めるメソッド」は確立されていないのですから、プロを採用するにあたってはある程度青田買いをせざるを得ませんし、「収穫できない青田で終わる人が出る」ことは避けて通れません。 だからこそ、義務教育を受けさせることは必要だと思います。「絶対成功」の確約があるならそれでもありかも?程度には思いますが、そんなものはないからです。 「絶対成功する」と言う希望的観測・机上の空論・こうあってほしいと言う願望にしがみついたことは、国民に何百万人もの犠牲者を出しました。 そして、多くの棋士が普及などに軸足を移していきます。 普及をバカにする意図は毛頭ないのですが、「新初段の頃は、普及をするにしても、井山やイチャンホ、将棋の羽生や藤井聡太のようなスター的な形での普及がやりたかったのでは?」とも思うのです。 学生時代に入賞1回、6年前に県代表経験1回。一般の人相手なら自慢できても、ある程度強い人たちの世界の前では「あっそ」程度の今の私ですら、実は指導碁の真似事位やっていたりします。 私の真似事とプロの普及活動を比べるのは失礼だろうと思いますが、「彼らはこれをやりたいがためにプロになったのか?」と思わずにはいられないのも確かです。 結果として上位に行けなかった、あるいは上位にはいたが年を重ねて衰え気味になった棋士の受け皿として,普及が存在している,というのが現状であるように思うのです。 それはそれで悪いとは思いません。テレビで見なくなった芸能人も,実は地方営業でしっかり生き残っていたりします。 アマとは一線を画する高い棋力はもちろん、上位にいたころの知名度やプロとしての肩書は、普及にあたっても大きな武器になるでしょう。 しかし、「本当にそれがやりたくてプロになったの?」ということを思うと、「勝てなくなったプロはいっそプロという世界から下がる」という選択肢もあっていいように思うのです。 早期にプロを辞めれば,人生を立て直すこともできるでしょう。プロではありませんが,10代で囲碁漬け生活からプロを諦めた院生が大学に進学し、様々な方面で活躍していると言う話もよく聞きます。 しかし、プロとして引導を渡されるのが20代後半とか30代以降になってしまうと、もう潰しが効かなくなってしまってずるずる…それが実情だと思うのです。 それであれば,10代のうちにプロの道から下がり、アマチュアとして別の人生を歩みつつ,プロとしてのしがらみから解放する余地を残すことはあっていいのではないでしょうか。 もちろん囲碁記者とか、碁会所経営をするとか,「囲碁には関与するが棋戦を打つプロではない」という路線もあり得るでしょう。 青田で終わってしまう棋士にもっと早く別の道を用意してあげられないのか。 それを考えると、早期引退の可能性という意味でも、早期にプロの道から離脱する余地を残す=プロに早くしてあげて代わりに引退も早くすることができるようにするというのは一つのプロの在り方のモデルではないかな,と思います。 仲邑初段が今後大成することを祈り、応援もしますが、10歳のときの決断で今後の人生を全部囲碁にオールインしてしまう必要はありません。 もし何らかの違う道を歩みたくなったら違う人生を歩んでもいい。 仲邑初段は心の隅っこで構わないので、そのことを覚えていてほしいなと祈っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年01月31日 13時44分18秒
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