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碁法の谷の庵にて

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2022年05月13日
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カテゴリ:法律いろいろ
「少年法は、太平洋戦争が終わり、その後の食糧難などの折、食うに困ってやむにやまれず罪を犯した少年を救済するための法律である。
だから現代には不要である」


という意見は、少年法が議論になるとほぼ毎度と言っていいくらい四六時中出てきます。
こちらのサイトによれば、さかのぼれるのは2004年だそうですが、私の感覚としてはもっと前、20世紀のうちにはそういう意見を見たことがあります。
まあ私もろくに知らないで少年法のどうこうを考えようとする程度には若かったので・・・


さて、このような意見は本当に正しいのでしょうか。
太平洋戦争後、戦災で家族を亡くしたり社会保障もなくやむにやまれず罪を犯した少年(以下、「戦災犯罪少年」とします)を助けるための法律だったというのであれば、当然戦後、戦災犯罪少年に対応するためにどんな規定が制定・改正されたのか、その規定がどんなふうに問題であるという具体的な事実が必要なはずです。

このような主張の裏付けがあるのかどうか、少年法の沿革について自分の勉強がてらに少し触れてみたいと思います。



まず、少年犯罪に対しての刑の減軽について調べたところ、今から2200年前、始皇帝が統治する中国の秦でも「一定以下の身長の者は罰しない」という規定があったと考えられるそう(こちら参照)ですが、明らかに少年法を意識した規定でしょう。
(身長基準になっていたのは、当時暦や戸籍が整っておらず正確な年齢が中々分からなかったからではないかと思われます。)
つまり、少年に対する刑の減軽規定は紀元前には見られたと言うことになります。

ただ、これをもって少年に対する減軽が普遍的なものだと決めつけるのは早計とも思います。
「文字がない、あるいは記録がないのでどんな法律や処罰があったかも分からない」
「技術を伴わない法律は逆に柔軟性を欠くので、あえて法律なんか定めていなかった。」
「一応の法律はあっても、現代のような罪刑法定主義なんかないからただの目安に過ぎなかった」
「見つかっている法律は一部に過ぎず、全体像が分かるわけではない」(あのハンムラビ法典ですら、欠落があって全て分かっているわけではない)
「君主個人が性格的に減軽していたが、制度的なものではなく君主が変わった途端になくなった」


などと言うことも想定できますから、「存在する時代・地域があったのは確かだが、普遍性については不明」ということになるかと思います。
体系的な法律ができ、そこに少年の刑罰の減軽や保護処分による対応がはっきり盛り込まれるようになった歴史は決して長くありませんし、それ以前のことは「分からない」のです。



さて、明治以降の日本については、田宮裕・廣瀬健二編『注釈少年法』第4版、また岩波新書廣瀬健二「少年法入門」を参考に記載します。

特に後者は1000円でお釣りの出る値段で、Kindleでも配信されています。あまり面白い本ではない(失礼)ですが少年法について真面目に考えようという人が読めないような本ではありません。
なお、廣瀬健二教授は裁判官として、刑事裁判や少年審判に相応に携わった人物ですが、ほかならぬ私もロースクールで少年法を教わった方です。
かつて平成12年の少年法改正にも携わっていて、厳罰化と言われる改正にも関与していて弁護士サイドからの覚えはよくないと思いますし廣瀬教授も日弁連の先生方をよく思っていませんでしたが、私に大きく影響を与えていると言っていいでしょう。
講義を聴いたのは15年ほど前で当時から少年法も改正されていますが、歴史に関する話については、当時と今で変わるものではないでしょう。

旧刑法の時代


まず、明治15年(1882年)施行の日本の旧刑法では、少年に対しては刑の減軽規定があり、これにより処罰されない少年は成人と異なる施設に収容できることとされていましたが、少年向けの特別な裁判制度があったわけではありませんでした。
ただ、少年の処遇について大人と一緒くたでよいとは考えられておらず、成人との隔離や感化法による感化院(児童自立支援施設の前身)に入院させて感化教育などの教育的な処遇が実践されていました。

現行刑法から旧少年法の制定へ


明治40年(1907年)、新たに刑法ができました(現行刑法も、基本的にこの刑法を軸に改正して現在に至るものです)。この時点で、既に刑法に14歳未満の少年はを罰しない規定(刑法41条)がありました。
そして明治44年(1911年)刑事訴訟法改正にあたって少年法の導入が検討されるようになりました。

諸外国の少年法制に関する知識が入ってきたことや、少年犯罪の鎮圧、少年犯罪が将来成人犯罪に転化しうることを踏まえて刑事政策的に合理的な予防を講じよう。そういう動きがあったと言われていました。
憐憫のような人道や博愛主義ももちろんありましたが、少年法の導入は単にそれだけではなく、犯罪を防止するためにどうしたらよいかという合理性に基づいたもので、単なる甘やかしとして制定されていた訳ではないことに注意が必要です。
ひたすら処罰を重くしていれば犯罪が防げるわけではない、というのはなかなか理解されにくいところではありますが、当時から認識されてきた一面の事実なのです。

司法省と内務省の激しい対立もあってなかなか少年法は具体化しませんでしたが、大正11年(1922年)になってようやく、「旧少年法」と言われる少年法ができました。

旧少年法の内容


旧少年法は、18歳未満を少年とし、大多数の事件については検察官が通常の裁判にするか少年審判にするかを判断する(検察官先議)というものでした。
現行少年法は警察・検察と言った捜査機関が捜査するものの、ほぼ裁量の余地なく検察官が家庭裁判所に送致して、家裁で保護処分にするか刑事処罰にするか判断する(全件送致主義)のですが、当時はその振り分けは検察官が判断していたのです。

そして、検察官が少年審判に振り分けた場合少年審判は裁判所ではなく専用の少年審判所に少年審判をさせることにしたのですが、この少年審判所は司法機関ではなく行政機関であり、裁判官でない者が審判官として処分を下すことができました。
行政機関が裁判をして処分をする、というのは現代の発想からすれば「それっていいの?」となる所ですが、当時は別におかしな話ではありませんでした。帝国憲法下では、法律で特別裁判所を定めることも憲法違反ではありませんでした(軍法会議などもその例です)。
そして、少年審判所は自ら処分を下し、自らの手で処分を実施しました。必要なら処分を後から重くするということもできたのです。

そして、少年審判か通常の裁判かは検察官の裁量に任せられ、16歳以上や重罪事件は検察官の裁量で刑事処分か少年審判かが決まりました(旧少年法27条)。
少年審判所か通常の刑事裁判か検察官が選択する事件であっても、実際の運用は保護優先的であったとされます。
参考までに、1937(昭和12)年、検察官の下に送られた事件のうち、刑罰は約6%で、52%が保護処分、後は起訴猶予や微罪処分(起訴猶予や微罪処分は現行少年法にはないですが、要は処分なしです)、しかも保護処分の多くが訓戒のように、施設に強制入所させない処分だったのです。


また、現代の少年法にもある
①審判を始めることなく終わらせる審判不開始制度
②付添人選任制度
③少年の勾留制限
④16歳未満に対する死刑や無期刑の制限のほか、減軽規定もあり
⑤実名報道禁止(当時は罰則もあってむしろ現代よりも少年保護が強かった)

と言った規定も実は旧少年法の時代からあったのです。

少年保護司という少年の専門家による調査の形での関与や処分の方法も様々なものが認められており、柔軟な対応が可能だったのです。

旧少年法に問題がないわけではありませんでした。
保護処分が「建前上」少年にとって利益処分とされたせいで冤罪事件の類では不服申立もできないなど、権利保護に欠けていた面は否定しがたいところがあります。
また、当時は少年の受け皿となる設備が十分拡充されず、法律の建前通りの運用が厳しかったこと、内務省と司法省との確執が酷かったこと、戦時体制への移行に伴い、軍国主義的な教育にシフトせざるを得なくなるの問題点も多かったのです。
こうした問題点はありながらも、旧少年法の制度・運用の評価点はもっと見直されるべきでは?とは廣瀬教授の意見です。


さて、こうした少年法が元々あったところなので、少年法それ自体は戦災犯罪少年救済のために作られたというわけではないことは明らかでしょう。


旧少年法から現行少年法へ


では、戦災犯罪少年がたくさん出たであろう第2次世界大戦の後に大幅に改正されたのか、というとどうでしょうか。
確かに戦後すぐの1948年、少年法は大規模な改正がありました。この改正後の少年法を現行少年法と呼びましょう。


平成9年犯罪白書では現行少年法への改正の目的について

非行少年の処遇制度及び刑事手続についても,当時,戦時中における不十分な教育と戦後の混乱によって少年犯罪が激増し,かつ,悪質化しつつあった情況下において,少年の健全育成の重要性にかんがみるとき,これを単なる一時的現象として看過することは許されないという刑事政策的見地と,新たに施行された日本国憲法が基本的人権の保障をうたっており,少年の自由を拘束する強制処分を含んだ保護処分を行政機関で行うことは適当でないと考えられたことなどから(以下略)


とありますから、「戦後の少年犯罪の激増が少年法の改正の必要性を関係者に自覚させた」ということは可能でしょう。
増加した犯罪が戦災犯罪少年によるものだ、と言うのもそうなのかも知れません。
しかしながら、「旧少年法と比べ、こういう規定が原因で少年に甘くなった」というのがあるかというと実はそんなでもないのです。

このときの実務的な面からの改正の目玉は何かというと、(平成9年犯罪白書で取り上げられているもの)

①少年法の適用年齢を18歳未満から20歳未満に引き上げたこと(実施は昭和26年1月)
②地方裁判所と同格の司法機関である家庭裁判所を新たに設け、処分は家庭裁判所で決定する。家庭裁判所は処分を決定したら、実際の処分の執行には関わらない
③保護処分の種類を整理して保護観察,教護院又は養護施設送致及び少年院送致の3種類とする
④通常の刑事裁判か保護処分を選択するに際しては検察官による先議を廃止し,全ての件を家裁に送った上で家裁で決定する。検察で微罪処分や起訴猶予にはできない
⑤保護処分を決定するのも実際処分するのも少年審判所だったのを改め、処分を家裁が決めたら実際の処分の執行は行政機関に一任する。
⑥成人の刑事事件についても、少年の福祉を害する件では家裁に一任
⑦保護処分について上位の裁判所に抗告できなかったのを改めて抗告を認める
⑧刑事処分年齢を16歳以上に引き上げ、死刑と無期刑の制限を16歳未満から18歳未満に引き上げ

と言ったものでした。

このときの改正の中に、旧少年法との比較で見た時に少年年齢の引き上げ、死刑無期制限年齢の引き上げ、刑事処分可能年齢の引き上げといった少年に対しての保護処分の可能性を高めたり、寛刑化の規定が存在するのも確かであると言えるでしょう。


他方、これらの改正規定の中で、「旧少年法と比べて戦災犯罪少年の犯罪に対しての具体的な対策」と言えるものはなんでしょうか。
確かに、少年法の適用年齢を上げたことで、18歳~20歳未満の少年に対して広く保護処分を行うことができるようになったのは確かです。起訴猶予や微罪処分にすることで放り出すのと比べれば保護処分とすることで戦災犯罪少年の救済に役立った可能性はあるでしょう。
また、刑事処分可能年齢の引き上げも大きかったと思います。
他方、少年審判所が行うか家庭裁判所が行うかというのは、権限分掌という意味では大改革だったと言えます(戦前は家庭裁判所自体がありませんでした)が、少年への処分の重さや内容に直接つながるものではありません。

戦前から少年について保護と処罰の2つの制度を設け、重大事件については成人同様の裁判を選択肢とし、保護については福祉専門家の力を借りて判断するという仕組み自体が変わったわけではありませんでした。
そして、実際の運用としても、旧少年法では刑罰をもって臨むことが多かったわけではありませんでした。
昭和12年、全件検察官に送致されていた時代に刑罰が使われていたのは6%程度でしたが、昭和43年には10%程度が刑罰だった時代もありました。(道交法違反による罰金処分を除く)
また、刑事責任年齢の実質引き上げは2000年(平成12年)の改正で14歳も処罰できるようになったことで、現在では消えています。


こうしてみると、戦災犯罪少年を旧少年法の改正部分が救っていた、という具体的な根拠はみあたらないし、あたりそうな規定も現在では元に戻っていて無関係ということになります。


そもそも、戦後の貧困のあまり罪を犯した少年に対して一定の憐憫から寛大に対応すると言うことなら、個別の事件に応じて軽い刑罰で臨む、と言うことは、少年法を無関係にした本来の刑法でも可能な話でした。
例えば当時、殺人罪の法定刑は死刑または無期もしくは3年以上の懲役(現在は5年以上)であり、真に同情すべき背景のある少年なら、成人同様の処罰を適用する場合でも執行猶予にしたり、あるいは懲役刑の中でも軽い罪を選択するというような対応もできたのです。
殺人事件について厳罰化されている現在でも、いわゆる介護疲れなどの案件では、執行猶予判決が出る殺人事件も少なくありません(それも、裁判員裁判で)。
盗みのような比較的軽犯罪であれば、実質処分なしで説教だけして見逃すことだって刑法・刑事訴訟法で可能なことでもありました。むしろ刑法・刑事訴訟法ではない少年法になったことでそれ自体は軽微な事件も全件家裁に送致され、裁判所の判断に服する可能性が出てきたとも言えるのです。
放置しておくよりも、裁判所・保護処分とかませることで少年の福祉にも役立つ、と言う判断だったと考えられます。


他方少年法廃止論などを主張する方々が引き合いに出すような、同情の余地皆無に感じられる凶悪犯罪の類については、16歳~18歳の間に死刑が使えるかどうかと言う点くらいしか差がありません。
なお、18歳未満への死刑適用については日本が国際人権B規約に批准している関係上、少年法改正によって実現することは現状不可能です。(国際人権b規約第6条5項

どこが「戦災犯罪少年擁護」なのか?



こうして一通り少年法の歴史を振り返ってみたとき、いったいどの規定や仕組みや運用をもって、「戦災犯罪少年を救済するための法律」と言うのか。
そういう趣旨かと取れる規定はなくもないにせよ、既にそうと取れる規定の中には廃止されているものもあったり、少年法改正ではどうしようもないものもあったり、むしろ処分なしでの放免とせず処分することで保護するというような規定ばかり。
その中で、どこから少年法廃止のような主張に結び付けるのか、残念ながら私にはわかりません。



私としては、少年法を何が何でも変えるなと言いたいわけではありません。
誤解に基づく批判が非常に多いというのは確かである一方、法制審議会その手の誤解に基づいて法改正を主張しているとも思っていません。(その手の誤解にむしろ法制審も困っているのではないかと思っています)
少年法に納得できない、少年法に限らず刑事法全般に納得できないという心情は、例え法制度について全面的な知識を得たとしても、当然抱かれてしかるべきものだという認識でいます。
完全な納得は諦めざるを得ないとしても、できる限り納得してもらうというのも、法実務家としては責任がある所だろうとも思います。

その見地から、日弁連とかの声明に「そんな理屈で説得できると思うの?」「結論はいいから、せめてもっと市民向けにすとんと落ちる理由付けをもっと強く押し立ててもいいんじゃないの?」と忸怩たるものも感じています。
例えば実名報道に反対するなら、「少年を悪い意味でのヒーローととらえた模倣犯が現れかねない」「関係者が口を噤んだり流言飛語が出てしまいかねず、真相解明から遠ざかる」という方がまだ市民向けだと思います。
模倣犯リスクなどは一言も触れることなく、成長発達権だけ念仏のように唱えて効果があるのかどうか位、考えられないのでしょうか。

ただ、誤解前提の不満は改めなければなりませんし、露骨な誤解を言いふらすような言動に対して寛容でいるわけにもいきません。
「少年法は戦後すぐの貧困少年を救済するための法律だから今必要ない」と言う主張は、まさしく露骨な誤解を言いふらす一例だろうと思っています。

せめて、旧少年法のどんな規定や運用が、戦後の貧困少年対策として改正されたのか、そしてその改正が現在ではダメな理由は何なのかを具体的に明らかにしてほしい所です。
誰一人どんな仕組みが戦後の貧困少年救済のためのものであって、それが今はいらないという具体的な内容が言えないのであれば、その理論がいかに空虚な受け売りの産物に過ぎないということなのではないでしょうか。




余談



本日の話題からは余談になりますが、廣瀬教授が貧困と少年犯罪について、話していた内容を書いて〆とします。
私のノートに書いてあったものですから当然私の勝手な編集が入っていますが、そこはそういうものとしてお読みください。

戦後の不良少年は被害者でも今の不良少年は被害者ではないと言うのは全くの間違いだろうと思う。
「貧困と犯罪」「家庭の悪さと非行」などは結びついている。
本当に食うに困ると言うのは減っているのかもしれないが、精神的貧困はなお強烈に残っている。
両親円満で家庭もうまくいっているのに大事件を起こして家裁に送られてくるなんてことは、実際にはほとんどない。両親の籍が形上入っていても、家庭内別居と言うような状態は最悪と言える。
少年は好んでぐれているわけではないと言うのは間違いない。真っ先に少年犯罪の状況が変わってその後に大人の犯罪が変わっていくものである。





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最終更新日  2022年05月13日 21時00分05秒
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