社会防衛・更生重視の刑事法と贖罪重視の刑事法
刑法学において、今は旧派(古典学派)という考え方が基本的な考え方とされています。これに対し、かつては新派(近代学派)という考え方が相当有力に主張されていました。 学部とかでは、こういった刑法学の対比は深くやることはありません。というか、私は何をやったか全く憶えていません。ただ、学習を進めていくと、これがそういうことかというのが多少は見えてきます。 「刑法」という科目が開設されている場合、その主領域は犯罪の成否、あるいは成立するとしてどの罪か、という考え方(犯罪論)が中心になりがちです。そして、刑罰の目的や種類・あり方論は刑事政策という科目にまわされることが多く、刑法学のこうしたあり方さえ、あんまりやらない、やったとしても試験に出ないため、すぐに忘れてしまうと言うのが本当の所ではないでしょうか。また、司法試験であってもこの領域が問われる可能性は「ゼロではない」程度でしょう。 そして、現在は、犯罪学・刑事学と刑法解釈学は分けて考えられることが多いため、刑法に強ければ現実の犯罪現象や犯罪対策に強い、ということにはならず、別個の勉強しなおしが要求されるのが実態ではないかと思われます。 私の理解も、とんでもない誤りがあるかもしれません。それを前提に読んでいただきたく存じます。 さて、現在の刑法学と、新派の刑法学はどう違うのでしょうか。 例えば、未遂犯論において、未遂に至る「実行の着手」に関し、現在の判例や学説の大勢は「現実にある程度の危険があった場合」を採用します。一例として、毒入りの酒を郵送して飲ませ、毒殺しようとした場合、実行の着手があるのは送ったときではなく、毒入りの酒が到着したときである、とされます。例えば、郵送中輸送事故で割れてしまったら殺人予備罪にしかなりません。輸送事故で割れてしまった毒入り酒が飲まれることは到底ありえないので、危険がないからです。 しかし、新派刑法学では未遂犯に至る実行の着手は「犯意の飛躍的に高まったとき」とか、「犯意の成立が行為で確定的に認められたとき」「取り消し不可能な確実性ある行為があった場合」とします。だから、輸送事故で割れてしまっても送った時点で犯意は飛躍的に高まっている、送ったら取り消しは利かないので、実行の着手あり、殺人未遂という結論になると考えられます。なぜこうした考え方を新派刑法学は採用したのでしょうか。新派刑法学が大きく発展したのが、「生来性犯罪者説」を唱えたロンブローゾの出現によると言われます。彼は、実証的な犯罪研究を踏まえ、犯罪と言うのは全面的ではないにしてもある程度宿命的なものと判断(この辺、人間観が出てくるところです)。そこから、「罪と罰を予告しておけば犯罪が減る」といった思弁的思考による罪刑法定主義による犯罪抑止力を否定し、犯罪の実態に即し、社会から犯罪と言うものを追い払うための処罰を模索しました。こうした実証的研究に基づいて犯罪学を考えたロンブローゾは、犯罪学の父ともいわれ、こうした犯罪学と法理論を結びつける考え方が一時大いに模索され、激しい論争となったようです。 新派刑法学がなぜ登場したのか、と言えば、刑罰をもって脅すという旧来のあり方が、増加する犯罪に対して無力なのではということが自覚されてきたためだ、と言われています。罪刑法定主義で、犯罪と刑罰を予告しておけば各人は犯罪と刑罰の利益・不利益を比較して犯罪を思いとどまる・・・というような考え方は、人権保障はともかく犯罪抑止からは役立たない机上の議論だ、ということが自覚されてきたわけです。新派刑法学の出発点は、「犯罪者に対する処罰は社会防衛という視点からなされるもの」という点にあります。そこから、犯罪者個々人に対する特別予防の機能が大変に重視され、危険人物ということで、そのような人物を教育、場合によっては排除することによって社会からの危険を取り除くために処罰をするわけです。(ちなみに、新派刑法学でも死刑存置論も廃止論もあります) そうすると、犯罪を生の現象として捉え、抑止などを模索する犯罪学と処罰という番犬に対する鎖を解く場合を模索する学問である刑法学は相当に接近することになります。危険性判断には、犯罪を生の現象として捉えるあり方が不可欠であるためです。 ここにおいて、贖罪という概念は脇に置かれます。例えば、救いようのないような人殺しに対して、2年くらい服役したら完全に更生しました、これ以上服役させても浦島太郎になってしまって悪影響しかありません、ということになったら新派刑法学を徹底する立場からすれば釈放が適正(!)ということになります。旧派からすれば最後まで償っていけ、ということになりますが。新派刑法学の中には、危険性に対して刑罰に変わる制裁によるべきであって、刑罰という観念自体なくなるというようなものさえあったのです。 しかし、現在の学界の通説・刑事実務を支配する刑法の捕らえ方では、処罰は彼のした行為の贖罪であって、反省・更生はせいぜいこうした贖罪に関連する副次的機能として考慮すべきものと捉えます。今でも、犯罪行為自体(被害、やり方、動機など)が観察されて量刑は7,8割が決まる、と私の知る実務家は口をそろえます。周辺情状(境遇とか、年齢とか)は考慮されますが、プラスαの2,3割でしかありません。(もっとも、裁判員裁判でここがどうなるかまでは予測がつきにくいですが)死刑事件とかなら、あるいは短期懲役刑で執行猶予如何を争うということであればまだしも、普通の事件は彼のやったことはなんだ?と言う点をつめるところから入ります。 新派刑法学が現代において採用されなかった理由は、人権保障という見地にある、と言われているようです。刑罰と言えば人権保障とギリギリとの攻防をしなければならない領域ですが、主観に依存しすぎれば刑罰の範囲が不明確となる上に、あまりにも処罰が早すぎてしまい、(毒酒郵送の事例なら、送った直後に後悔して電話をかけ、毒が入っているから絶対飲むなと伝えた場合にも殺人未遂ということになる)のは、人権保障の見地から脅威となる恐れがあるし、そもそも応報・贖罪の見地なくして刑罰を正当化できるのかどうかという点にも疑問が持たれたことがあげられます。(新派刑法学は逆に応報などで正当化できるのかという疑問を提示しましたが)更に、内心の処罰に至って人権保障の見地から問題が発生する恐れもあります。罪刑法定主義の縛りを堅持するとしても(新派刑法学では罪刑法定主義自体に否定的な見解もあったらしいですが)、主観的な面に依存しての刑法は、処罰の範囲が拡大しすぎるのでは、という考えが有力だったようです。 もう一つ言えば、贖罪という概念をすっ飛ばし、危険性で大方を決めてしまう、というのは国民感情にも合わないのではないでしょうか。先述の「懲役2年の救いがたい殺人犯」を想像してください。 また、刑事実務という視点から見ても、証拠から遡れるのは行為と結果、故意過失レベルが精々であり、主観面に著しく依存する刑法解釈は使い勝手が非常に悪いようです。大量に起こる犯罪を処理するのに、個々人の細かい可能性まで検討するのは限りなく厳しいというのが実情でしょう。 刑法がそうであるとすると刑事訴訟法にも影響が及びます。事実の認定はもちろん大切ですが、事実認定が済んだ後も延々と本人の改善や更生の可能性を検討していかないと、適正な刑罰は到底導き得ないことになります。精密司法と言われ、過剰立証で訴訟を遅延させるものだと批判されていた実務のありようだって、新派刑法学からすればある程度当然ともいえます。 また、裁判員裁判では、訴訟進行内での前科ばらしはできる限り慎むことが求められると言われますが、本人の危険兆表たる前科は新派刑法学からすれば非常に重要であること、専門性がほしいところですが、裁判員はむしろ素人性が求められていますから、裁判員裁判で全面的に新派刑法学を用いることは不可能でしょう。 結局、刑法解釈の基礎となる考え方は旧派で現在はほぼ落ち着きました。しかし、新派刑法学vs旧派刑法学は無意味な議論だったわけではありません。刑罰の実務的運用(執行猶予、仮釈放、刑の量定)と言ったところに入って、そういうところで論争が大きく生きていると言う見方もあるようです。 また、少年たちの更生を目指す少年法制では新派刑法学的な発想が非常に強く出てきます。これについては、後日別個に記事にしようかと思います。念には念を入れておきますが、両者は必ずしも二律背反ではありません。贖罪をすることがその更生→特別予防に小さからぬ役割を果たすであろうことは否定できません。刑務所で更生する人だって現実にいるわけです。死刑という判決によって自分のした行為の重さを思い知る者だっています。逆に、本人の特別予防の見地からも、贖罪一切なしというのも問題があるでしょう。彼の社会復帰が社会に受け入れられなければいくら本人に更生意欲があったって結局犯罪に手を染めると言うオチが存在しかねません。とはいえ、背反する場合があることも当然です。常々言っているとおり、刑務所に対する服役がレッテル貼り、社会隔離となって更生阻害となる例は否定できません。犯罪少年に金を使うなんてというような発想は、正義感情には適うかもしれませんが、現実の犯罪抑止には役に立たないものです。 さて、旧派刑法学は、ある意味では犯罪の被害者等を重視する立論にはあわないのではないか、と思います。既になされた犯罪に観念的な償いをさせるよりも、再犯率が決して低くない現在においては再度の被害者を生む恐れを低減させる方がはるかに合理的であり、犯罪者個々人に対する教育を主眼において新派の考え方がずっと優れているものと考えています。 他方において、新派刑法学はものすごく合理的であると思いますが、そのような刑法学が現在の司法、いや人類に扱いきれるのかというのと同時に(裁判官に高い能力が求められ、手間も費用もかかる)、扱いきれたとして支持されるのか、という問題もあります。犯罪者に対する特別予防主眼の少年法が今の犯罪被害者や世論から嫌われている現状を見れば、新派刑法学はたぶん支持されないだろうな、と思います。 結局どちらもどちらなりに犯罪被害者に優しく、犯罪者に厳しいあり方です。 ただ、更生を一方で求めながら厳罰を求めると言うのは、矛盾となる「場合がある」ことは否定できません。厳罰でなければ更生しない、というのはケース次第です。刑罰による抑止力、という考え方はありますが、全面的にそれでいける、という性質のものとも考えられていません。 その辺を踏まえて、裁判員裁判を前に、いったん刑罰って何のためにあるのか、人間というのは運命付けられた存在なのか、各人で考えてみるのもよいのではないでしょうか。 ちなみに、wikipediaでのまとめはここからどうぞ。