権威に対して謙虚であること
日本人は権威に弱い、とよく言われます。 私も、はっきり言って権威に弱いです、と言うよりむしろ弱くあろうと努めているとすら自分で思います。 ちなみに別に権威に強い人(という表現が正しいかどうかわかりませんが)を「それだけで」腐す気はありません。 根本的に面倒くさがりな私は、例えば碁でも「これで形勢は悪くない、勝てる」と思ったら更にそれ以上を目指すことをしません。相応の質がキープされていると判断しさえすれば、さっさとそのまま打ち進めますし、大体それで勝っています。(この辺、私の棋風と性格がぴったり一致している所だったりする) コウを解消して全然勝っているのに、いつまでも小さなコウ材に応対して逆転される人、幽玄の間の7,8段クラスでもごく普通に見かけますが、内心で「おいおいおい」と思ったりもします。まあ、ネット碁の場合は相手に勝つより楽しさやノリが大事だ、と言う人も普通にいるので、一概に否定する気はありませんが。 話を戻すと、その意味で権威に頼るのは、楽ちんです。自分で一から調べて相応の質のものを確保するのは一骨どころでは済みませんが、権威の見識を借りれば、相応の質の見解形成が確保できるからです。 また、世の中では絶対的真実ばかり追い求める訳にもいきません。「暫定的に」これが真実であろうと認定するしかないと言うのは、世のあらゆる営みで言えることです。 権威に頼った論証はそれすなわち真理であることを欠片も意味しませんが、完全でない人間が暫定的にどこかで真実への「妥協」をしなければならない中では、権威の見解に頼るのが手っ取り早くて、他より質もよいのです。 私は人類史上最大の発明は、飛行機でも抗生物質でも核でも、「火」ですらなく、「分業制」であると思っています。分業制なくして(少なくとも今の世の中における)権威と言うのは成り立たないと思いますが、学問など特に分業制なくして発展しえない領域であると思うだけに、(過度の専門分化に問題があることは否定しませんが、少なくとも今の人類の見識の全てを個人が学び、かつ生かすには最長120年程度の寿命では無理でしょう)曲がりなりにも大学や大学院で法学を勉強した身では分業制や権威のありがたみが身にしみます。 分厚い六法に記載された法律の条文「だけ」を与えられて、問題を出されて、さあ考えてみろ、とだけ言われたって、何が問題なのかすらわからずお手上げにならざるを得ない領域は、8年間くらい学んできた今の私にも少なくないのです。まして、一般人がまっさらな状態から身一つで考えろと言われたら、多くの人が悲鳴を上げるに違いないと思う訳です。(そもそも何法に書いてあるのかすらわかりません、なんてことだってあり得ます) また、法学のように客観的な解がまず存在しない場合には、権威が言っていることすなわち正解にすらなります。 裁判の世界では、判例と言う権威をひけなければ有権解釈(立法時の有権解釈や行政上の解釈通達など)と言う権威をひき、それでもだめなら学説と言う権威をひき、それすらないと言う、もはや詰んでしまったような状態の中でだけ、「私はこう思うんです」を使います。真っ先に私はこう思うと自説だけ使っても仕方ありませんし、それですら近い判例をギリギリまで自説に近く引き寄せる等の工夫を練ります。 それ抜きであれこれ論証をこねるのは、全く判例も何もない完全な新ジャンルか、判例にケンカを売らなければその職務を果たせない場合なら仕方ありませんが、まずは十中八九最後の悪あがきにしかならないのです。司法試験なら論文試験はともかく択一試験は100%受かりません。受かっていても受かっていなくても容易に分かることです。 もちろん、最後に理由を書きますがその最後の悪あがきを見事成就させた人を腐す気はさらさらない(むしろ尊敬します)ので念のため。 他方で、権威主義には弱点もあります。 何より、「その権威自体が間違っていたらどうするの?」という問題です。 歴史的に見て、権威が言ってきたことが全面的に正しいことばかりだった、なんてことはありません。今の学説からすればありえないような珍説でさえ、かつては権威として扱われてきたこともあります。 常に権威主義と言うのはそういった危険と隣り合わせです。 権威主義と言うのが一般に否定的なニュアンスを持たれるのも、そう言った権威主義の弱点が存在するからです。(あと、マニュアルがないと動けない人間の存在も問題にされますが。) しかし、権威に頼らず自分の見解を作るとなれば、多かれ少なかれ自分の目で物事を見据えて考え、判断しなければなりません。少なくとも、一般に権威とされる人々はそういう過程を通過した上で、権威としての地位を勝ち取っています。 例えば私が確定裁判の事実認定などに一般的にはケチをつけないのも、証拠を直接見聞し手続に立ち会った裁判官の判断は、自分の目で物事を見据えて考えると言う、それだけで極めて外面的な情報しか持たない自分の判断より信頼性が遥かにおける過程を経ているからです。もちろん、裁判に限らず手続を踏まえた行政上の諸手続についても同様です。 もちろん、それすなわち行政や裁判所が「絶対無謬」だ、と言うことには絶対にならないので、証拠を拾い上げ批判する人をそれだけで批判する気にはならないのですが、暫定的にどうあるべきか、という点で行けばそこらの私人の主張より裁判官の手続を踏まえた見解の方が信頼できる、と言う話なのです。 ときとして、そこには無知から来る独善や思考の錯誤が大量に入る余地があることになります。分業制の恩恵も、権威による「そこそこの質」の恩恵も受けない、となれば当然そこには果てしない苦難の道が待っていることになります。 もちろん、時にはその苦難をものともせず権威を跳ね返した人物もいますし、そういう人たちには心から敬意を表しますし、そういう努力をすること自体も、私は全くおかしいと思いません。 ・・・ただ、その苦難が分かっていない人が多いのも事実であるように思います。 そして、そういう人たちは、「自分達ではほとんど勉強もしない」のに、俺様が正しいで終わってしまいます。「自分の頭で考える」ことの価値を否定する気は毛頭ないにせよ、自分の頭の限界を悟らなければならないのに、それができないのです。 権威主義なら、まだその「正しい」は権威の見解なのでそこそこの質が確保されていますから、まだ「まし」と言えると思いますが、世で権威を批判する一般人の主張の多くは独善以外の何物でもなくよりどころすら怪しいため、最初からガタガタです。と言うより、最初からガタガタでなく十分に批判に耐えうる質をキープしているなら、一般人として批判する以前に権威として頭角を現している可能性が高いと思います。 しかも、なぜかそう言う人物に限って権威とされる見解をこれ以上ないほど、時として陰謀論やら利権論まで引っ張り出してボロンボロンにけなす傾向がある…ような気がなんとなくします。(気のせいかもしれませんが) だから、私は権威に対する批判言説をほとんど信用しません。正確に言えば、例えそうかもしれないな、と思ったとしても、その批判言説をそのまま受け止めて発言する場合はほとんどありません。権威と権威でぶつかるか、そもそも権威も何もない領域であれば私見も交えますが。 正確に言えば、アンチ権威主義も権威主義も全面的に信用していいものではないにせよ、権威主義の方がまだ信頼が置けるだろうと言う感じでしょうか。 もちろん、そこには「権威に従っておけば安心である」「自分の頭で考えない」というずるい思考があることも、否定はしません。一般になされる権威主義批判が、当てはまると言われればそれまででしょう。 それでも、権威に対しては謙虚であらねばならないと思います。 もちろんそれは権威を批判してはならないことを意味しません。ただし権威にケンカを売ることの苦難の道のりを悟る必要はあるはずだと思うのです。 その苦難の道のりを悟ればこそ、安易な俺様理論に頼らず、「ひとたびその気を起こしたときに」適切に批判して行くこともできるはずだと私は信じています。 敵を知り己を知れば百戦危うからず。