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カテゴリ:日常生活から
1946年3月5日、ウィンストン・チャーチル英首相は、米ミズーリ州のウェストミンスター大学で
「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされた」 との語句を含む演説を行いました。 ヨーロッパが西欧と東欧に分断された事を象徴した「鉄のカーテン」演説として広く知られるようになりました。 1950〜70年代には、しばしば専門家が「鉄のカーテン」が何処にあるのかを観測するようにもなりました。 1989年、ハンガリー首相ネーメト・ミクローシュによって、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去されました。 この報道を西ドイツのテレビ番組で知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側諸国に亡命出来ると考えて同国に殺到しました。 8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックと呼ばれた現象でした。 9月11日には、ハンガリーは東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁。 東ドイツ国民は西への出口を求めてチェコスロバキア、ポーランドへも殺到。 国内でもデモが頻発して、11月9日のベルリンの壁崩壊に至りました。 東欧諸国でも民主化運動が勃発してリトアニア、ラトヴィアが主権を宣言しました。 米ソも冷戦終結を宣言。 1990年10月3日にドイツは統一されて、鉄のカーテンは消滅しました。 1991年にロシア・ウクライナ・ベラルーシ首脳は、1922年の連邦条約の無効とCIS設立を宣言し、ソヴィエト内の11共和国がCIS結成で合意しました。 これによってソヴィエト連邦は消滅し、ロシア共和国が主権を宣言して首都を含む領土の継承国家となりました。 鉄のカーテンは、ソヴェイト連邦が資本主義諸国に対抗するための東欧諸国の政治的支配の象徴だった、と考える方が増えているようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.03.04 16:46:48
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