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カテゴリ:歴史・戦史
慶次のブログにおいて、アクセスが集中するのは決まってこの時期である
それも、原爆投下について書いたフリーページへのアクセス数が多い 2008 広島 平和公園慰霊碑前 1945年8月6日 AM0:00 1番機エノラゲイを含む全4機にて作戦確認。 AM1:45 テニアン島基地離陸 パーソンズは機内にて原爆組み立て。 AM7:15 エノラゲイに広島は天候良との報告が入る。 この偵察機に対し広島では空襲警報が発令される。 AM7:31 広島、空襲警報解除。防空壕などから安心して出てきた人々は通常の生活に復帰していく。 AM8:15 エノラゲイ、高度9000より原子爆弾を35万都市広島に投下する。 43秒後、地上600メートル旧広島県産業奨励館(現原爆ドーム)上空にて炸裂。 このときの炸裂中心部は100万度を超え太陽より熱く、約10秒後、その衝撃波により半径2キロは全壊、生存者はわずか。 炸裂30分後、どろどろと粘り気のある黒い雨が広島に降る。 その頃、ポツダムから帰国中であったトルーマンは巡洋艦オーガスタ上にて、 「原子爆弾を広島に落とし、完璧に消滅」という報告を聞くこととなる。 (フリーページ広島より抜粋) 2007 長崎 悲しみの石碑 1945年8月9日 AM3:47 ボッグズ・カー小倉に向かいテニアン島を出撃、護衛機はB29二機。 燃料ポンプの誤作動、さらに小倉の天気が悪く視界ゼロということで小倉上空を行ったり来たりするが善良なる神様のご加護か、 天候の回復する様子はない。 残燃料と索敵に捕まる恐れから、目標地を急遽「長崎」に変更、しかしながらここでも神は日本に味方して天候は悪状況。 ここでレーダーに頼り、ボッグズ・カーは投下を決意、その瞬間悪魔のいたずらか雲の中にポッカリと穴が開いた。 AM11:02 スイーニー中佐、ファットマンを長崎に投下。 ファットマンの威力はリトルボーイを凌いだが、平らな地形の広島と異なり、長崎という起伏ある地域が被害を抑えた。 また地形の起伏が原爆の衝撃波をあちこちに反射させ、ボッグズ・カーは5度ほど衝撃波を受けている。 このニュースを聞いたソ連はすぐに日ソ不可侵条約を一方的に破り、対日侵攻を開始する。 (フリーページ広島・長崎より抜粋) 2007 長崎 平和記念像 日本の敗戦後、アメリカは原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置する このメンバーは当然医学に詳しい者ばかりであったが、彼らは原爆症に 苦しむ人々を救うことはなかった それもそのはず、原爆は人にどのような変化をもたらし、どうやって 死んでいくかを研究するだけの機関であったからだ 軍医服を着てても、病院に誰か来ても被験者のデータを取るのみで、 助かる命かどうかは彼らにはまったく関係なかったのだ 2008 広島 原爆ドーム
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最終更新日
2011年08月09日 00時14分32秒
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