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三田のいのしし 見て歩き日記

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2015年02月08日
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国道176号線沿いにある大原城址
大原城址
正面に入母屋造り妻入りの
民家が見える。その上が大原城址だ。

道路から20m~30mの丘にありその台地は低い山に繋がっている。独立していないので

戦国時代以前はそれなりの土を盛り上げ、空堀を造り戦略性の向上に努めたとか。

高齢者大学で
学んだことがあった。対岸2kmぐらいな所には貴志城もあったらしい。

やはり織田信長公が出現するまでは、「城」とは土で成すと言う字で成り立っているわけで、昔は

大なり小なり土を掻き揚げて防ぎょ壁とし、出来上がったのが「城」だったそうです。

これも高齢者大学の
の講師からお聞きした話です。

このお城も綿密に測量して裏付け、確認済みの図面を拝見するとなかなか戦略性がありそう

でしたが、何しろこの高さ、現在の目線で観てはいけないと言うことだろう。



民家とその構え

武庫川から我が家への帰り道、登り坂の左手にこの大きな構えの民家があり、いつも感心します。

全体の構え
民家

入母屋造り妻入りの居宅
右側から見た民家
妻面にしたに入り口が見えております。

入母屋造りのこの外観は三田市以外のどこにでもあり、このお宅も昔は茅葺の時代もあった

事と思います。

三田のこの形式の居宅はこのお宅も含めてほぼ妻入りです。

茅葺の入母屋造り妻入りの家は、この三田市と言えども観光の対象になるような家はあまり

残ってないようです。

お母屋の左右に土蔵造りの倉庫、納屋などを構えた造りは、昔の我が家などもそうでしたが

昔はごく普通の構えであったかと思いますが、現在もこのような構えであって、したから坂道を

登りながら眺めた時、いつも立派だなあ・・・と感心して歩いております。

入母屋造りの妻面 屋根の下
屋根の下
この白い、屋根の下には、家紋を飾る例が多いようです。

ここの妻面の事はさておき、先日天神町でであった空家で見た妻面
入母屋と水の字
なにか「水」を思わせる漢字の一部だろう。 門側は家紋の例もあるが火事よけの水の字?

この大きなお屋敷は今は廃屋の感じ、この部分も壊れたままだろうと推測。

お寺ではここに懸魚が在るのが普通
厳島神社の懸魚の例 その1
梅鉢懸魚
梅鉢懸魚と命名されております。

火事よけ、火の用心の為。 大昔中国・雲南省あたりで干魚を吊るして火事よけにした事から。

江戸時代、少なくとも江戸時代には武家や社寺?など許されたところしか懸魚を掛けることは

許されていなかった。民家では苗字帯刀が許された特定の豪農など例外もあるそうだ。

※ 三田の民家では、表側の妻面はその家の家紋の例が多い。

   裏側、中庭側にはこの例に似た水とか、なにか火事よけが掛けられているらしい。

     ともかくこの大原地区は入母屋造り妻入りの民家が多い。

このお宅の如く大原城址に面した少し窪地からせりあがった、まるで舞台みたいな場所に

居宅があるお宅の下を感心しながら歩いております。

参考までに:

県立有馬富士公園、福島大池の池畔に立てられた民家のモデル

茅葺民家モデル
この茅葺の萱をそのまま、あるいは萱を外してその屋根の構造もまま金属の覆いを

付けたのが現在の民家だと思われます。 このモデルは、妻入りの部分が見えておりま

せんがその辺に関して意識して建てられたかどうか、お聞きしておりませんでした。

福島大池付近の茅葺の民家
三田の民家モデル
その様子から現在はお住まいとして利用されていない感じでしたが、瓦葺の屋根の上部を

萱で葺く形式は全国的に多かったと見ております。

我が家野納屋でかなりな面積の家、その瓦葺きの上部が茅葺でしたが、解体に立ち合い

手伝いましたが、上部の茅葺の下はくぎが使用されておらず縄で固定しておりました。

それを次々にほどいていた所、屋根が傾きかけて震えがったことでした。

多分、昔は釘に使用は少ないのに家は安定していた、安心できる家が普通だったのでは

無いでしょうか。

・・・ ・・・

この三田市に居を構えてから、入母屋造り妻入りのお宅の数々を拝見する度に、そんな

昔の民家の構造に思いをはせて歩くことが数多くありました。

 






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最終更新日  2015年02月09日 19時43分46秒
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