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三田のいのしし 見て歩き日記

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2017年05月22日
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2017年5月18日(金)快晴 ウォ-キングの体験記です

 貴志御霊神社の境内左に大きな灯篭があり、「天明6午吉日」と読めた。

 すごく興味が湧いたので神社の様子と「天明6午吉日」などについて調べましたのでお読み

 下さい(5月22日(月)朝

始めに

今回は、境内の大きな石灯篭に関して重点的に書く予定でしたが、この神社のご本殿の改装が

この5月に終わったばかり、しかも裏山なども綺麗にされて観察しやすくなりましたので、

このご本殿にある貴重な彫刻物などの事も触れてみる気になりました。

長くなり、すみません。

貴志御霊神社の全体

貴志御霊神社 ご本殿   再建された建屋、すっきり見えます。

御覧願えれば理解が進むように、ご本殿の正面は三間、側面が二面の入母屋造り。

屋根は檜皮葺で入母屋の妻面の庇を伸ばして角柱を立て向拝としている(パンフレットより)
  

話題が多い向拝上の種子(シュジ)キヤ(十一面観音):種子(シュジ)は仏教の言葉です。

      蟇股(梁と梁の間に設けて支えてする)が歴史的発展により飾りとなり、この神社の向拝

      においてはこのような彫り物となっている。

    

     蟇股の中央に刻まれたのが種子(シュジ)のキヤ(十一面観音)

     お寺さんにおける仏像と等しく十一面観音様のお力を表している・・・とみなされている

     はずです。神仏習合の時代には神社側ではこのような形で仏さまを受け入れたらしい。
     拡大図

    

     この写真の中央、白い彫り物が種子キヤです。

     仏教の歴史とその信仰上の姿に詳しくありませんが、仏像や僧侶などが印を結ぶ形と同じ

     強い意味合いを持っているものの一つが種子で、キヤは十一面観音様の御姿を知らなくて

     このキヤを拝めば同じ幸せに恵まれるとされていたのだろう。

蟇股について

   「貴志御霊神社のご案内」パンフレットから抜粋

   中世の信仰は神仏混交の時代、正面蟇股に十一面観音種子「キヤ」。

   右側面には「戎・大国」の彫像、そして左側面に「三宝院」の彫り物がある。

   すぐれた絵模様彫刻である
 ・・・

   今回は間に合わないが、早急に両側面の蟇股の撮影を試み、できればこの項に追加して載せ

   たい。

   右側面の蟇股「恵比寿・大黒」 2017.05.21
  

  尚、右側面には今一つの蟇股があり、動物唐獅子らしい彫刻があり。

  左側面の蟇股には: 2017.05.21

    

  この彫刻もすぐれたものだと思いますが、盛りつけた物が何か?

本論の前が長くなりましたが、近年この貴志御霊神社は周辺の山の刈明け、伐採、ご本殿の

修復(あるいは再建)が進み、結果としてこのご本殿の写真撮影も、明るい光の中での行い

で楽ななりましたので、先行してご紹介させてもらいました。

  拝殿前にある石灯篭の脇に「モチツツジ」が咲いていて(@_@)

     

     この日、2例目のモチツツジ、参道にもかなりな数のモチツツジが花で出迎えてくれた。

◎ ▲ 

鳥居をくぐり、境内にある最初の大きな石灯篭について

参道側から見ると境内の左側になります。

計っていないが、高さが2mほどあるはずです。この写真でいえば左後ろに映っている石の

鳥居のぬきなどと比べてもその高さ、大きさが分かる。

この石灯篭の建立年代


最初、この文字を「天明6年11月吉日」と勘違いして読み、手帳に控えた。

実は、正しくは「天明6午11月吉日」であろうと思うに至りました。

年号など少し勉強してみました。

1. 読む時は、天明六午(ウマ)の年十一月吉日…とでも読んだのではないか。

2    西暦    和暦  十二支  干支

      1786年  天明6   午年   丙午(ひのえうま)

3. 当時の住人は、西暦は勿論わかりませんが、和暦、十二支、干支はすべてわかっていて
      灯篭などに彫り込む年号としては和暦と十二支(干支の例も見た)を彫り込んだものらしい。

4. 天明6年が干支では「丙午」であることは十分分かっていたのではないでしょうか。

※ 拝殿の前にある灯篭には下記の彫刻があった (寄進者は金生院海得と地元の方々)

      元禄十五午 五月吉日
      元禄15午(うま)(あるいは干支の壬午、ミズノエウマと読む)5月吉日(西暦1702年)

      つまり元禄15年は天明6年から84年前の午(ウマ)の年であるというわけです。

 

今回はこの石灯篭の奉納者が「社坊金生院」と分かっので、興味が盛り上がった反面、すでに

拝殿のすぐ前にある石灯篭の寄進者が同じ社坊金生院であることをこれまでに学び、このブロ

グの中でもご報告してまいりましたので、名前の特に撮影することは避けました。

尚、2か所共に一基は社坊金生院、対面する一基は地元の方々となっております。

      ご参考までに、境内の様子を見てみよう : 2015.10.11撮影

     

      今回撮影の大きな石灯篭はこの写真の場合、写っていませんが、左手前です。

      つまり長い参道を歩いて来て数段の石段を登ってこの境内に入る。

      その先に写真で見るような拝殿と本殿が設けられている囲いがあります。

      石の灯篭は今回の観察対象の物やこの写真に見える灯篭の他、拝殿の直前にもあります。

      其処にも社坊金生院の名前が刻印された灯篭があります。

◎ ▲ ×

これから先は私が興味を持った事項についての勉強です。

1.   天明6午11月吉日 (寄進)とあるが、天明とは西暦では何年か、またその時代?

      (1)天明年代 1781年4月(天明元年)~1788年(天明8年) 江戸時代です。

      (2)天明6年 1786年 干支では”丙午(ひのえうまと読む)”

              現代人が2017年といえば、どんな時代かすぐに分かるように、この時代は西暦も

              通用しておらず、古代からの通年の慣習はなかったと思われます。

              しかし、「天明6午11月」と記録すると、その年代や過去から、或いは徳川幕府の

              開創から何年目と理解できたのだろう・・・と思います。

             天明の文字と午の文字によるもので、不勉強ですが、多くは丙午が言葉としても通用

             したのではないでしょうか。

      (3)1786年、天明6年とは?

              初代徳川家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治公と続く。

              10代将軍の時代でした。在任期間は28年らしい。

             その家治公の年代は:1760年(宝暦10年)~1786年(天明6年)でした。

              初代家康将軍(西暦1603年)から言えば、天明6年1786年は183年目となります。

              鎖国政策を厳しく維持した矛盾により、厳しい経済の中でこの地方の経済、生活に

              様々な波紋もあったものと思われます。

     (4) 社坊の意味

             江戸時代は住人の管理を寺に与え、神社もお寺の管理下にあった。旅の手形も信者と

             して登録、把握しているお寺から信者であることを保証されて初めて可能でした。

             この貴志御霊神社の管理者は金生院だったがこのお寺もこの神社の為に出来たのかも

             しれません。

             余談になりますが・・・

             この神社でのお祭りに当っても 神主が神様に祝詞を上げている傍で、いわゆる「社坊」

             のお坊さんがお経をあげていたらしい。

             お坊さんにとって、しいてその神様との関連事項はなかったらしいが、仕来りとして

            仏様ではなくて神様にお経をあげると言った厳しさが内在した暮らしでもあったよう

            です。

            今考えると向拝蟇股に彫刻された種子キャ(十一面観音)がお坊さんにとってこれ以上
            ない存在ですから、建前は神様に向って祈りながら、腹の中では種子キヤに向かって

            懸命にお経をあげていたかもしれませんね

   (5)この灯篭に社坊の金生院が気張って大きな灯篭を寄進した背景として住人の無言の目を
           意識すると、気張って寄進せざるを得ない。

           こんなことも考えられました。余計な推測かも知れませんが。
      明治2年に社坊金生院が廃寺となった際、その資料や財物?などの一切が金心寺に移管さ

      れたらしいが、こんなところにもこのお寺の地元との繋がりの浅さが感じられます。

      尚、社坊「金生院」は、この貴志御霊神社の近くで、今で言えばウッディタウンの

      一画にあったそうです。

貴志御霊神社の再建の歴史について

1. 本殿内陣に納められている厨子の両扉の裏面に本殿再興していった経過が詳しく墨紀

      されている。

2. 延文四年に本殿が焼失したために、文正元年(1466)地下(ジゲ)の百姓等が御霊宮

      の再興について談合の上決定し、地下(地元)の百姓等から奉賀を得て、文明二年正月

      二十六日事始、三月五日柱立、四月七日上棟、五月二十八日に遷宮したと示されている  
      以上はパンフレットから転記。

      ※文明二年とは: 1470年 後土御門天皇 足利幕府 足利義政公の時代

三田の神社、仏閣の中でも、特にこの神社に関心が高いのは、ウォ-キングで通過の際、時々

地元の氏子さんが境内掃除に励んでいるのに出合いました。

そして、拝殿前の2基の石灯篭の奉納者が社坊金星院であることを熱心に教えてくれました。

この事がきっかけでこの神社に関する関心が高まりました。  

    

◎ ▲ ×

     余談ながら

     このブログの作者は高知県四万十町の片田舎の出身ですが。

     我が家の仏壇には、真鍮製とみられる「しきみ」立て 一基が残されていります。

     祖先からの言い伝えでは:

     明治初年に廃寺になったお寺が我が家のごく近くに在ったこと。

     廃寺の際、ご近所の檀家に遺物を配った。その一例だというのです。

     高知県は他の四国3県と同じで四国88カ所のお寺が有名で、四万十町には37番札所岩本寺

     があります。神社としては高岡神社(通称が五社)が有名ですが、各集落には在所の神様

     を祀る神社(例えばわだつみ神社)があり、この社坊かと思われますが不明です。

     神仏混交から解放され、管理していたお寺の多くが廃寺になった例は驚くほど多く存在した

     と思われます。






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最終更新日  2017年05月22日 06時38分47秒
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