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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:思索
ベジタリアンの話からすすんで、暴力と攻撃性について考えていた。
僕が考えていたのは、暴力性を避けるあまり正常な攻撃性までも否定することはないだろうということだ。 先日読んだバイオエナジェティクス(生体エネルギー療法)の本の一節を要約します。 「あらゆる表現行為は、自分自身の内部にあるものを外に向けて吐き出すという意味で攻撃的です。 攻撃性は政治学で言うような暴力とだけ関連付けて考えるべきものではありません。 愛の手を差し伸べることも、愛を得ようと努力することも攻撃的な行為です。 「私はあなたを愛しています。」と言うのは「私はあなたを憎んでいます。」と言うのと同じほど攻撃的です。 攻撃性は発言の内容にあるのではなく、何かに向けて行われる行為自体にあるのです。 ですから、あらゆる自己表現には攻撃性がいくらかは含まれているものなのです。」 「子供は家庭環境に順応しようとして、自分の感情の多くを抑圧します。 恐れや怒り、悲しみや喜びの感情に両親は我慢できないだろうと子供は考えて、そうした感情を表現するのを控えはじめます。 その結果、子供は従順になるか反抗的になるかのどちらかです。 こうした態度はどちらも真正な感情表現ではありません。 反抗はしばしば欲求の隠れ蓑ですし、従順はしばしば怒りや恐れの否定です。 感情は、その人の心の奥底から自然に出た衝動、あるいは活動として湧き上がってくるものです。 感情を抑圧するには、身体の活力や運動性を挫くか制限するしかありません。 ですから、ひとつの感情を抑圧しようとするとすべての感情を弱めることになります。 感情表現の抑制は、感情の喪失につながり、感情の喪失は生気を失わせます。 思考がマインドの生命であるように、感情は身体の生命なのです。」 あらゆる感情や思考に幸あれ。 否定しなければならないようなものは何もない。 要はそれをいかに創造的に表現するかだと思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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