■アメリカの街の作られ方と日本の街の作られ方の違いが、人の心の有り様までも決めている
これはお気に入りにも登録してある まゆ3281さんにコピーさせてもらった ものです♪気になる方はこちらへ↓↓↓↓↓↓↓「ことば探し」こう言う話を聞いたことがある。アメリカの街の作られ方と日本の街の作られ方の違いが、人の心の有り様までも決めているというのである。アメリカでは、西部へ西部へと人々が開拓していたった時代、人々は一カ所に集まって街を作った。街が出来てから、街の治安を守るために保安官が必要になって、保安官を雇うことにした。法を守るためには、裁判制度も必要だということになって、判事や弁護士という職業が成り立った。つまりはじめに人がいて、必要に応じて役所ができていったわけである。だから、あくまで、民中心の街作りだったのである。それに比べて、日本は全く逆のコースをたどった。城下町、門前町、宿場町、といろいろな街の形態はあるが、そのどれもが、住民は街の形態が整ってから引き寄せられるようにして集まっていったのである。最初に街作りに参加したのは、人民を治める側である、役人たちだったわけだ。だから、官中心の街になり、人々は官を「お上」と呼んで、一段上のものにしてしまった。「お上の言うことにはさからえない」というわけで、納得のいかないことでも、「お上」の言うことを聞いていたのである。出典元 【物事、難しく考えることはない】著者名 井浦 康之 なるほど、日本人が「お上」や「役人」に弱いのは、こんな歴史があるのかもしれないな、などと思った。この本によると、そのため「お上」の命令や言うことに納得しないまま、無理に或いはいやいや従い、「まぁいいか」「適当にやっとけ」という気持になり、いい加減にやることが多く、望むような結果は出ないのではないか、ということだった。つまり、納得しなければ、本当の意味での行動には移せないし、満足の行く結果や効果が出せないのではないかと。例えば、仕事で、上司から「□□をしろ」と命令されたとして、だいたいなぜ、□□をやることが必要なのか、なぜ、自分がそれをするのか、などということの説明や、納得できるほどの話し合いがないことが多い。互いに面倒なことを省いて、納得することを省く。そして、互いにやることを適当に解釈し、本来の意義から大きくそれた結果になることも多いのではないか。人は、納得することが、納得してやることが、とても大事なんだと思う。本当に、やることに納得したら、それが仮に「お上」「役人」「上司」「親」「先生」「同僚」他、の命令でも言うことでも、多少辛くてもやるのではないか。少なくても、私はそうだ。そして、この「納得する」ということが、とても大切だと思っている。 気になった方はこちらへ ↓↓↓↓↓↓↓ 「ことば探し」