夜になって雨が降ったらしく首都の舗道は打ち水のあとのように黒く光っている。午後九時頃に見上げた空にはほぼ満月に近い月が湿度を帯びた薄い雲のフィルターを透かして灰色の円を中天に浮かべ、なにやら未来世紀ブラジルのごとき風景、いやエルンストの描く森の上にかがやく月か。交差点で信号待ちをしながら、そんな月をながめながら黒い群衆が坂を上る風景が遠望される神楽坂の週末木曜日の端に立ち、アルコールのしみたアタマの味噌の中では先日亡くなった露西亜の作家のことをふっと思い出したり、とうとう上場廃止になったライブドアの株価が94円だったニュースやたったいままで乗っていた東京メトロの車内の明るすぎてやけに静かな光景の、どこかうちくたびれた気怠さなどを反すうしているのだった。…とここまで書いて寝てしまったらしい。目覚めれば愛国の朝だ。いやソファの横だ。背骨がきしむのは年のせいばかりでもないか、めずらしく都会を歩き回った。異国を歩くように。利害を伴わない観光の旅のように。子細に見て歩けばいまだ高層ビルの谷には木造家屋がはさまれていたりもする。東京帝都は元来、沢の街であろう、いたるところに坂があり丘があり谷間がある。加えて超高層の地階を降りれば壮大な地下空間がひろがりそこから幾本もの高速交通網メトロが網の目のように闇を疾走する。むろんそうした空間の凸凹だけでもなく、制度化された闇もまた無数にあって、山河は人工物によって占拠され、おおわれ、やがてはそうしたいっさいを、すなわち開国・遷都以来のたかだか120年の時空間や歴史と称するもの、また暮らしや死者たちをもいっきょにまとめて、地層の数センチの年輪で未来へはこぶのであろう。人工的に区画された二十三の区域の中心には「皇居」なるものがあって、それらは首都という得体の知れない政治行政社会用語の制度化されたことばと共鳴しつつ、平成が少しも平静でないように化石となりつつある昭和という時代を見送る。この弓状列島の隅から隅、端から端、北から南から西から東まで国家というシロモノが民族という生き物と合体し溶け合い、生物でもないのにまるで生き物のごとくに地上に君臨し、山河はまるで家来か手下か子分か乾分のごとくに蹂躙され、ひたすらに国家を富ませるために捧げられ蹂躙される。湯島中坂を上り下り、東大農学部の煉瓦の塀に沿って自転車を走らせて千駄木へと走り下る。横町を抜け縁台にならぶ春の草花を鉢植えの中にのぞきつつ、根津、谷中と散った桜の細道を踏み越えて上野桜木からやがて山でもないのにウグイスの鳴く鶯谷の駅前を通って根岸二丁目からまっすぐに二輪を走らせればまもなく荒川区へと至ってしまう。ああ愛国かと馬鹿な役人や警察官僚がほざき国家を疑わずに成長したエリート科挙人たちの汚れた背中がモンモンを彫り抜いて支配という制度をこよなく愛するドクター・ストレンジラブだ。それでとたんに目を覚ました週末金曜日の、午前九時半。まるで五月のような戸外が小さな窓からあふれかえる光を流し込んでいる。
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