きょう、「共謀罪」なる法律が国会で強行採決される。わたしももちろん「警察国家、治安国家をいっそう推進する以外のナニモノでもない」このような法案のいっさいを憎むが、その源流というか、そのやってきたる地平の源(みなもと)を見てしまっている目には、反対を唱えるひとびとの、むしろその楽天ぶりのほうに砂を噛むような鬱々たる気分というか不信がのこってしまう。その源流近くに漂いぶくぶくとさかんに噴き出す液状の「鵺」のごとき正体の、いかさまわれわれの「生」なるものが生みだし育ててきてしまった闇である…その原形質の記憶を、とおくはるかな地平へと押しやり、むしろ能動的にも忘れ去ったのは、1970年代以降の高度経済成長を生きてきたほかならぬわれら自身ではなかったのか。ことさらにいまさらのごとくこの国家なるものの抱えこむ「鵺的なるもの」の、すでにしてそのなかにどっぷりと浸かりこみその生をいきるものたちの、見ざる・聞かざる・云わざるの果てに逢着した「この世界」の、容易に想定しうる全体主義国家への道筋を見てみぬふりのままに来て、なにをいまさら!とおもってしまうのだ。制度や国家なるもののいかがわしさが問題ではない。問題があるとすれば、それは容易に忘れ去るわれわれの都合のいい「生」「記憶」そのもののなかにある。敗戦国という凄惨と清算、山河の喪失と、むしろそうした暗い国土のなかから希望を見つけだしたときにのみきらきらと耀く、そのようなわれらの生の原形質の記憶をこそ、むしろもういちどとりもどさなくては、がらくたのようなゴミ法案のなかに、人としてのもっとも基本的なもの(たとえばそれは、おのれが生き生かされてこその人間社会、というごくシンプルなものだ)を埋めてしまうことになるのではあるまいか。
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