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カテゴリ:虚数単位
「ほら、みえるでしょ」男が言った。
「なにが」とわたし。 「みえないんですか?」 「…みえない」 「それは、あなたが本気で見ようとしていないからです」言いながら、彼は床においた黒鞄の中から何かをとりだした。 「ほら、これ」 長い管がとちゅうから二つに分かれている。医師が使う聴診器のようにみえる。 「これをつけてみてください」 何を言っているんだ、とわたしはおもったが、言われるままに両の耳にそれをつけた。 「いかがですか」と男がこちらをのぞき込む。「それをごじぶんの胸に当てて、しばらくじっと耳を澄ませれば、やがて見えてきますよ」 先端を左の胸に当て、わたしはしばらく耳を澄ました。なるほど、白い闇の向こうから、何かがこちらへ歩いてくるのが見えた。…それは、一匹の白い犬であった。 雪の朝だった。庭に出てみた五歳のわたしは、チロの死骸を見つけた。雪が、つめたくなったチロの体の上に積もりはじめていた。わたしが、「死」というものをはじめて体験した朝だった。 いま、闇の向こうからわたしのほうへちかづいてくる白い犬は、あのときのチロによく似ていた。 「どうやら、見えてきたようですね」と彼は笑った。 「こどもの時に可愛がっていたチロという柴犬が見えます」わたしはさけんだ。 「あははは。でも、それはチロではありません」男はきっぱりと言った。「それは、あなたです、あなたの…」 「わたしの、…何ですか」 「あなたは、いま自分の心臓の鼓動を聴いている。つまり」と彼はつづけた。「あなたがいま見ているもの、それは半世紀前の雪の朝、五歳のあなたが喪くしたもの…それからずっとあなたがわすれてしまっていた、いちばん大切なもの。そう…あなたの…」 そこで、目が覚めた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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