逆光 (2)
2006.05.31逆光(1)からのつづき薄闇のなかで何かがうごく。そのむかしは車坂といった切り通しの、大鳥居のちょうどすぐ真下のところから、ぞろっと白い人群れが一団、坂をくだっている。夜明け前のまだ午前三時をまわったばかりのこんな時刻にいったい何をしているのか。手すりのコンクリのつめたい感触を両の手のひらで感じながら、わたしは高層から身を乗り出し、坂を一列縦隊となってくだってゆくその異様な一団を目で追った。先頭の山伏のような白装束の男をのぞくと、ほかの十数名はなにかを支え持っている。ながい棒状の丸太のようにも見えるが、闇にかすかに光を反射するその光沢からは金属様の物体であるようにおもえる。かなりの重量物なのだろう、その地を踏む足並みが、いかにも重そうにときおりたたらを踏むような仕草を呈する。七階のわたしのところから俯瞰する角度では、物体の形状のおおよそはわかっても(砲身のようにもみえる)、その材質や細部まではまるで判断できない。はっと気づいて例の屋敷のほうをわたしは見た。一団が、あるいはその屋敷から出て来たのではないのか、と考えたからである。大鳥居から屋敷までの距離はほんの十間ほどだ。わたしが一団を薄闇のなかに見たのはまだつい数分前である。だが、屋敷の一帯は門灯が白く灯っているきりで、まったくまだ闇の中に沈んだままである。天神下の不忍通りと交差するところまで下りると、一行はそのまま交差点をわたって、こちらの視界の外へ消えた。昼間ならときどきは車が渋滞する交差点は、タクシーの数台と大型の冷凍車が一台走りぬけたきりだ。それきりシンとなり、まもなくわたしは部屋へ戻った。そんなことがあった日の午後、わたしは出版社に持ち込むフィルムと紙焼きの束を持って外へ出た。行き先が地下鉄千代田線ではなくて丸ノ内線を利用する路線だったから、そのままわたしは春日通りを本郷三丁目駅へむかった。朝から妙にじめっとする日だった。マンション前の春日通りを本郷の交差点に向かって歩いているとき、もし、と声をかける女が居た。ちょうど大学へ曲がる路地のあるところで、すぐ角が本富士警察署である。そこからでてきたらしい女は、追いかけるように小走りにわたしのほうへかけよってきた。「あのう」と立ち止まって、顔を上げる。レースのワンピースに高いヒールを履いている。三十くらいだろうか。どこかで見た覚えのある顔だちだが、おもいだせない。「すみません」といきなり女はぺこりと頭を下げて、すこし恥ずかしそうな笑顔をみせた。「ほら、吉沢です、吉沢あけみ…」と、そこまで言いかけて、さっと右手をこちらへ差し出した。その動作でわたしはあっと思い出した。一度うちへ遊びに来たことのある金栗亮治の女友達だ。たしか大井町で両親が骨董の店を経営している。金栗亮治はわたしの助手をつとめるライター志望の若者だった。わたしが思い出したらしいことに気づいて安心したらしく、彼女はもういちどおじぎをした。「亮治君は元気ですか」そういえば、彼に頼みたい仕事があり、意味もなく消息をきいた。出がけに彼に連絡を入れようと考えていたことをいまさらに思い出した。「それが、彼、捕まっちゃったんです」彼女は肩越しに、いま出て来た建物を指さした。「会ってきたんです。本人はとても元気なんですけど…」「容疑はなんですか?」「それが…さっぱり分からないんです。それでいま相談しに伺おうかと迷っていたんです」「迷うことなんかないのに」と笑いながら言うと、「なんだかおかしいんです」ちょっと言いよどんで思い切るようにつづけた。「時間いただけますか? ちょっと説明しますから」わたしたちはそのまま歩いて、交差点のすぐ横にある喫茶店に入った。わたしにはあまり時間がなかったが、すこしのあいだなら先方も待ってくれるはずだ。ケータイから急用が出来て30分ほど遅れる旨を編集部に簡単に伝えて、珈琲をふたつ注文した。真向かいに座った彼女は、あたりを窺うような仕草をしてから、ゆっくりと話しはじめた。それはまったく奇怪な話だった。(つづく)