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カテゴリ:友だち
土曜の昼に友人ふたり、RとSとが車でやってきて、相も変わらぬバカ話。 ちょうどカゼひき婆さんと化していたお袋は、この元悪童どもの話が大好き。フトンにゴロゴロしながら、クッションに身をゆだねながら楽しそうに聞いていた。 Rは、ぼくの中学時代の同級生。 Sは、ぼくの高校時代の同級生。 RとSは、予備校時代の同級生。 文字にするとなんとなくわかるけど、言葉で説明するとよくわからん関係。年齢も微妙に違ったりするもんだから、 「なんで、あんたたち、仲間なん?」 とでも尋ねられると説明がめんどくさい。 まぁ、友だち関係が30年以上続いているということで許してもらおう。 土曜日。RとSは、Sの姉のところへ不要になったベッドを引き取りに行った帰りに、我が家へと寄ってくれた。3人揃って会うのは久々なので、ベッドを積んだSの車でまずはSの実家へ。 その昔、Sの実家は「ボタ山の中腹にある広~い屋敷」といった風情だったのだけど、周囲の変わりようと言ったらなくて、どこの道から入ればいいのかさっぱりワカラン。 「ここはどこ? 私はだれ?」 と、ボケている間に実家へ到着。 分解され、車に乗せられていたベッドをSの実家へと運び込み、合体。シングル・ベッドのできあがり。Sのお父さんが昼寝に使うのかなぁ。 彼の家には高校時代から浪人時代にかけてよく通った。この日、ベッドを入れた部屋が当時はSの部屋で、五輪真弓の「煙草のけむり」を聞いた覚えがなぜかものすごく鮮明に残ってる。 それと、覚えているのは今や鹿児島で郵便局長となっている高校の同級生が、サンダル履きで走り回った足をガラスかなにかで切ったときのこと。縁側に寝ころび、足を血だらけにして痛がりながら、笑っていた。 さらには、この日はいなかった友人Cが10代の娘っ子と結婚するということとなったときのこと。 「反対はせんけど、はたちくらいまで待ってやれよ」 と、説得に当たったのがこの家の台所。 Cは言った。 「これまでは友だちが一番大切やったけど、これからはあいつが一番」 よ~言うた。そこまで言うんやったらエエやろ。一緒になりやい、祝福するけん。 でも、すぐに別れたね。どっちもあまりに幼かったもん、やっぱし。 なんてことを思い出しながら、RとSとぼくと3人で、近くの街に飲みに出る。 Sとぼくとは大学も同じで、下宿したアパートもこれまた同じ。でもそれは友情のあまりに示し合わせたワケじゃなく、ある日、アパートの窓を開けたら、斜め向かいの部屋にSの顔があったのだった。 「なんでお前がそこにおるんや?」 てなもんだ。 Rは京都の学校へ進んだのだけど、仕送りゼロの、言ってみれば苦学生。学んでないので、正確にはどう表現すればいいのかは悩むけど。 だから彼は、春や夏の長い休みごとに上京してきて、ぼくの部屋やSの部屋をねじろに肉体労働に精を出した。 彼は年寄りウケが抜群にいい男で、ぼくが帰省している夏の間、ずっとぼくの部屋にいたときには、一階に住む大家のおばあちゃんが下から二階の部屋に向かって、 「Rさん、Rさ~ん、お茶が入りましたよ」 と、お茶に誘うほどだった。 Rの代わりに、本来の住人であるぼくが窓からひょいと顔を出すと、 「あら、Mさん、いつ戻られたんですか?」 ちょっと悲しかったっけ。 土曜の夜は遅くまで飲み、豚骨ラーメンを最後にSの家へ。人には語れぬ、しかし、S本人はどんどん語る、哀しくもどこか滑稽な事情があって、彼の家は空いてる部屋がいっぱい。でも、歯を磨いていた末っ子を尻目に、酔っぱらいオヤジ3人は、シャツとパンツでリビングでゴロゴロごろ寝。 お子さまの教育には、よろしくないに違いない。 ま、反面教師っていうこともあるしね。 翌朝、と言ってもお昼を回っていたけれど、Rは現在の住み家・関西地方へと帰るために高速バスで空港へ。 ぼくは近くのJRの駅へSの車で送ってもらう。 バイバイ、さよなら。たまには、飲もうや。 送ってもらった駅は、高校時代の馴染み駅。 ぼくが高校へ通っていたころは、この駅からさらに主に石炭を運ぶ線路が三駅分、延びていたけれど、とっくに廃線。レールが引かれていたあとは、広いバス道路に変わっていた。 でも、駅には遠いあのころの面影がある。 「中間駅」と申します。 駅舎の雰囲気は昔のまんま。 当時の通学列車は、SL=蒸気機関車(D51=デコイチ)。開けっ放しのデッキに座っていて、ポイントを通るときの揺れで列車から落っこちた友だちを「だいじょうぶかいな?」と待ったのもこのホーム。 落っこちたヤツは「イテ~」とお尻をかきながら線路の真ん中を、足を引きずりつつ駆けてきた。走る列車から落ちて「イテ~」で済んだんだからヨシとしなきゃね。 そいつが、コワい学校の生徒さんたちから「金、貸せ」と言われ、「貸しちゃぁけど、いつ、返してくれるん?」と尋ねて、「お前、ナメとんのか!」とシバかれたのも、このホーム。 なにがあっても、ちびまる子ちゃんの「山田」みたいに、エヘヘと笑ってたっけな。あいつはどこでなにをやっているやら。どこかの山持ちの家へと逆玉の輿に乗って行ったというウワサを聞いたけど。 SLの頃、駅舎に緑はなかった。 レールの先に、今も母校が。 ぼくは学校が大好きで、当時の国鉄がゼネストをやり、このレールを列車が走らなかった日も、線路沿いの道を自転車のペダルを踏みつつ登校した。もちろん、勉強をしに行くはずもなく、ゼネストのため生徒がまばらなグラウンドでバレーボールやサッカーをやるためだった。 校舎の屋上で、だらりだらりと過ごすためでもあった。RCの「トランジスタラジオ」のようには、タバコの煙りが青くなかったけど。あのころ、屋上でタバコをふかしているヤツはいなかったんじゃないかなぁ。トイレとか、教室の後ろとかだった気がする。 教室の壁の節穴にきちんと消えていない吸い殻を放り込んだヤツがいて、授業中に煙がモクモクあがりはじめたときはかなり驚いた。かわいそうに先生は「お前たち、頼むから火はちゃんと消してくれ」と懇願したっけ。 そんな問題じゃナカでしょが。 屋上でバレーボールをやってたらボールが下へと落ちていき、グラウンドでポーンと跳ねて校長室へ飛び込んだのはゼネストのときだったかなぁ? 叱られましたね、あれは。 受験直前にもバレーボールに興じていたら、校長先生が真っ赤な顔をして飛んできて、「お前ら! 今、どんなときだと思ってるんだ!!」と怒鳴られた。 しかし、「お前ら!」だもんね。 今の時代、校長先生がそんな言葉で生徒を頭ごなしに叱るかなぁ。 担任の先生はまたまたお気の毒に、校長先生からこってり絞られたようで、「お前たち、ちょっと控えちゃらんや」と言ったっけ。 ぼくももう、あのころの担任の先生の歳をはるかに越えた。 「お前たちにはほんに手を焼かされた」 学生時代、正月に遊びに行くたびにそう話しては嘆息していた担任の先生が60代の若さで世を去ってから、もう何年が経つだろう。 そうね、大変だったろうな、男子も女子も、そろいもそろってイタズラ小僧の巣窟みたいな高校だったから。 ちょっと、反省。 でも、ま、先生も嘆きつつ言ってくれたもんね。 「おとなしいだけより、悪そうの方がず~っとヨカ」 そのまんまってのも、マズいと思うけどね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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