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テーマ:私の読書(24)
カテゴリ:本
殉国 吉村昭 1967年
陸軍二等兵比嘉真一 沖縄戦に鉄血勤皇隊として召集された、当時旧制中学三年・14歳の少年に、戦後二十数年経て取材したものだそうだ。著者は事実に忠実に創作したそうだ。 敵愾心、気負いをもっていたが、容赦のない殺戮、果てしない死地、累々たる腐乱・散乱、飢餓の中、負傷者の搬送、埋葬に疲れ果て、自決の銃声や手榴弾の炸裂が続く中、戦う意志は捨てず、腐乱死体の下に死体に化けて逃れ続けていたが、遂に発見され、小さい体躯を米兵に囲まれて晒され、屈辱感と羞恥の中捕虜となってしまう。 著者の「旅行鞄のなか」に収録の「14歳の陸軍二等兵」によれば、ハワイに連行された後、帰還できたものの、級友はほとんど亡くなり、戦後は、米軍関係の英文通信社に長く勤め、個人タクシーを営むようになったそうだ。二歳違いの著者とは取材を通じて親交が生まれたそうだ。 敵前逃亡 吉村昭 1970年 旧制中学3年の陸軍二等兵が負傷者の搬送中、爆撃弾で意識を失い、気が付けば捕虜となっていた。投降勧告の役を打診され、逃亡の好機と企て、渡嘉敷島の友軍の立てこもる陣地へ向かい、逃亡し戦闘を志願する。しかし、士官は捕虜になってしまったことを許さず、敵前逃亡として斬首されてしまう。 日本の軍紀とは、命を破綻させる精神が支配した無残なものであったという事なのか。 太陽をみたい 吉村昭 1970年 沖縄・伊江島では、女子斬込隊が組まれ、看護隊の19歳の女子は、断髪し、鉄兜を被り、短刀を携えて、夜間斬りこみの砲弾運搬に従事したそうだ。日本の将兵が爆雷を背負い戦車に身を投じ続けたが、伊江城山陣地から総攻撃に出た後に、残された者達は、就寝中の発火を負傷兵に託して洞窟で中で死の眠りについたが、負傷兵が逡巡したため朝を迎える。米軍に囲まれても投降勧告には応ぜず、籠城するも、最期には力尽き、死ぬなら太陽をみたいと、洞窟をはいでたそうだ。 伊江島は米軍基地となり、住民は他島への立ち退きをさせられ、飢餓生活の後、二年後に帰島を許されたそうだ。故郷の累々たる死骸の埋葬がはじまったそうだ。日本人戦死者4706人中、住民が1500名であったそうだ。 他人の城 吉村昭 1970年 沖縄戦に備え、疎開命令に従って疎開したものは、8万人で187隻が渡海したそうだ。内、対馬丸が一隻が雷撃され、乗員乗客1804人中生存者は177人であったそうだ。 宮崎の遠縁を頼って身を寄せるも、よそ者扱い、島民への蔑み、冷淡な村民が現実的であったそうだ。沖縄壊滅で一時は同情的になっても、敗戦をむかえると追い出しにかかったそうだ。沖縄出身の帰還兵10万人も九州の路頭に迷ったそうだ。 沖縄への送還がなったとき、著者は言う、「沖縄は日本の一県との思いは錯覚と気づいたにちがいない。沖縄は本土とは無縁の島であったことを知ったはず。」 本土で漂流民となった後、沖縄へ戻ると、別のところのように荒れ果て、米兵が支配し、日本人が労役についていた。親戚に身を寄せた村では、夜、酔った米兵がジープで女性を襲いに来て、村民は集団で金属を打ち鳴らして抗うしかない姿があったそうだ。 摩文仁は人骨のひろがる丘と化し、海岸には自決の痕跡が残り、手榴弾の炸裂の輪に散らばる骨が残っていたそうだ。砂糖黍・雑草の繁みには白骨が寄りかたまり、養分となっていたそうだ。 海の色のみに昔が残っていたそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 10, 2015 01:38:06 PM
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