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テーマ:私の読書(24)
カテゴリ:本
収容所から来た遺書 辺見じゅん 1989年
隠岐・西ノ島出身でロシア語を東京外大で学んだことのある一等兵は、文書情報班に所属し、敗戦でシベリアに抑留され、収容所での壮絶な囚われの生活を課せられた。スパイとの戦犯扱いとなり重労働25年の一方的判決により矯正労働収容所にいれられてしまう。1000人ほど収容されており、団長は瀬島龍三中佐であったそうだ。 飢餓、栄養失調、極寒、不衛生、過酷労働、拷問、監視、思想教育、密告、私刑、懲罰、衰弱死、これらが支配した生活で、そんな中でも、人間らしく、句を詠み、語り合い、情勢を分析し、人々に未来を信じさせる主人公の生き様は、静かで強靭で囚われぬ精神の体現だ。その人柄により階級を超えて周りに人が集まったそうだ。「事実を通じて真実を、現象を通じて本質を」と生きたそうだ。 病に倒れ、死を迎えても、残した親兄弟妻子を想い、子供たちへの教育に日本の未来が賭かるとの決意を遺書に託し、没収されぬように仲間に記憶することを頼み、仲間はそれに応え、シベリアの土となっても遺書は日本の遺族に確実に届けられた。 遺書を読むと、愛情に溢れ、胸に迫る人の道を説くものだ。日本人に囚われぬ精神を教えるかのようだ。悲劇の極みだが、清々しい精神が溢れだす、日本人に宛てたかのような尊い永遠の遺書だ。 子供たちへの遺書の一節 「日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれた道義の文化---人道主義を以って世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。 また、君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。」 残された夫人は、隠岐から教職を求めて松江、大宮と移り、4人の子供を養育し、東大、東京芸大、東大、東京外大へ進ませたそうだ。 生きて帰ってきた男 小熊英二 2015年 早稲田実業卒の二等兵が庶民の冷めた見送りの中で出征し、敗戦によりシベリアに抑留され、なんとか生還する。収容所は、食料、寒さが極限状態で、さらに精神的にも民主運動なる転向同胞からの思想教育、反動摘発、密告と厳しいものであったそうだ。 窮状は極限にあったが、所外の労働時にロシア人家庭に泊めてもらった時、日本では見られないほどの貧しい状況にロシアの家庭があることを知ったと。一方、ロシア軍では日本のように上官が殴るようなことは見受けられず、上官と兵がフランクに話す姿が印象的であったと。日本が、士官学校、帝国大学など学歴による階級社会で差別社会であることを痛感したと。 普通の庶民が否応なく戦争の惨劇に巻き込まれてしまうのであるから、巻き込まれた者は、何かに意気込むような生き方はせず、命を永らえるのが精一杯であったらしい。何かに囚われる精神は、胡散臭く、疎まれたのだろう。 1948年に帰国すると、収容所よりも日本の食事は貧しいものであったと。職を求め転々としながら生活を築いていく庶民に、頼れる支柱などなかったようだ。囚われず銘々が生き抜いた時代のようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 22, 2015 03:25:38 PM
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