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テーマ:私の読書(15)
カテゴリ:本
沖縄の殿様 高橋義夫 2015年
最後の米沢藩主、上杉茂憲の県令奮闘記 沖縄は、17世紀に薩摩藩が征服して知行制を敷き、石高制で年貢を徴していたそうだが、琉球国として、明、清の冊封の関係を維持し、冊封使を迎え、饗応していたらしい。 官吏士族、町人は富み、民は圧政の労苦に晒された封建社会でもあったらしい。もともと18世紀には琉球科律という法律が定められ、19世紀には新案科律なる判例集ができていたそうで、村には村内法があり、小犯罪を裁き、上級審として平等所なる裁判所があったそうだ。苛烈なものではないようで、死刑の定めはあるものの適用例はほとんどなかったそうだ。 一方、生活はゆとりのあるものではなく、天候により作柄が大きく左右され、貧しさに陥り、明治に入っても借金が残った村が多かったそうだ。 廃藩地県は、1871年だが、沖縄は、逆にその翌年に琉球藩となったらしい。大久保利通は、藩主の上京、清国への進貢禁止、分営の設置などの琉球処分を推進して、1879年に沖縄県が設置されたらしい。この年、宮古島では、派出所の通訳兼小使いを惨殺する事件が発生していたそうだ。大和との交流禁止の島民の血判書もあったそうだ。 初代の県令は、鍋島直彬で、旧弊温存を基本方針として、官吏士族の旧慣を存置した運営であったそうだ。2代目として1881年、明治14年に上杉茂憲が任ぜられたそうだ。 上杉鷹山公の教えは、脈々と続いていて、新県令は、村々を視察して、興産、教育振興を奨励し、改革を推進しようとしたそうだ。政府に意見書もだしたそうで、税を適正化し、冗職曠官、民費上乗せ、付届けなどの旧弊の改革、教育、勧業、衛生の推進を訴えたそうだ。 この意見は、三条実美が天皇に上奏した旧慣習温存方針と異なるものとして政府は実態調査に息のかかった役人を派遣し、県令の方針を否定する調査報告が中央になされたそうだ。士族は不幸で、教育に農民も不満を抱き、農民は愚民であるから、士族に地方自治を任せよと報告したそうだ。 新県令の旧慣変更は非とされ、明治16年に解任されたそうだ。折角の改革も、例えば、17世紀からあった遊郭に対しては、貸座敷規則、娼妓規則を発令して浄化しようとしたそうだが、遊郭勢力が反県令を画策し、新県令解任後に規制は廃止され、元に戻ったそうだ。 為政者がかわっても収奪の構造はかわらなかったということらしい。飯嶋和一の小説「狗賓童子の島」と同じ構図だ。かわったのは、皇民化教育がなされたことで、清をなつかしむ士族もおり、怨念が残ったと著者は言う。 国境の要衝で、大和権力は旧機構を引き継いで支配したようだ。 沖縄返還と通貨パニック 川平成雄 2015年 皇民化した後、戦場となり、死地となり、米軍占領地となり、米軍要衝の地のまま、1972年5月、日本に復帰することとなる。沖縄処分から93年後だ。当時の様子が窺がえた。 1970年 9月 米兵が飲酒運転のジグザグ走行で主婦を轢殺。 1970年12月 米軍最高軍法会議 無罪 12月 コザ騒動 深夜、米兵が人をはね、朝まで民衆が騒乱 米軍車両焼失75台、米軍焼失建物5棟 1971年 1月 米国民政府法務局長からランバート高等弁務官(責任者)宛機密文書 (2012年1月資料発見) 「誤審。」 「この事実は公表すべきでない。 琉球人に軍法会議と陪審制度をよく理解してもらう方が有益。」 「時として無罪判決があることが受け入れられる様導くことが できよう。」 ニック・タース 「動くものをすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか」 正確な数字は不明だが、ベトナム戦争(1965年から1975年)で アメリカ軍は、ベトナム人兵士 1百万人 民間人2百万人 を殺害。 1971年 8月15日 ニクソン ショック なぜこの日にしたか、ニクソンの後日談 「日本人につけをまわすため」「佐藤首相にわざと恥をかかせた」 大蔵省の失態、英仏独が為替市場閉鎖するも日は閉鎖せず、 円買い40億$流入。その後変動制移行。 1971年10月 人々のドル通貨円換金保証額確認作業、米軍にも秘密裏に準備 当日実施。一矢。人々のドル資産の棄損回避。 1972年 5月 返還、円切り替え お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 22, 2016 10:33:58 AM
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