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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:本
小林正樹監督の名画「切腹」「上意討ちー拝領妻始末ー」の原作者、滝口康彦作「鬼哭の城」を読んだ。解説を読むと、滝口康彦の作品の中では珍しい純歴史小説と。
義と覇と命との間で、義を全うする武人と、覇と命に義を捨てる世人とが、活写されていた。命乞いに利己の性根を晒す者、義と利他に命を捧げる者、それらが絡み合った備中兵乱史の悲劇が描かれていた。 70ページほどの小編だが、人の本質をえぐり出した歴史小説で、描写の鮮烈さは、小林正樹監督の名画のようであった。 伊與部山から鬼身山方面を樹木の間から望む。夕部山城がここにあったわけだ。小早川隆景もこの景色をみたわけか。 ズームした鬼身城方面。鬼身山の向こう側の高滝山との間には、玉島と美袋をつなぐ街道があったらしい。鬼身城は、要衝をおさえた位置であったらしい。 この川筋に鬼身城に向けて毛利の大軍が展開したことになる。 鬼身城主郭跡(登城録・別窓表示)。物語では、この主郭での切腹は避け、二の丸で十文字腹をつめたと。岡山県の中世城館総合調査報告によると、主郭を要に扇状に曲輪が幾層にも拡がった大きな城域であったと。転石が多数残っており、随所に石垣を設けた堅固な城であったと。尚、この頃の松山城は、峻厳な臥牛山上に要塞化した城であったが、石垣はなかったと、本作中に記されていた。 主郭跡からの小早川隆景の陣・夕部山城跡を望む(24吋別窓表示)。鬼身城城主上野実親の姉である鶴姫は上月高徳に嫁ぎ、常山城に入った。その常山は薄く遠くにみえた。この鬼身城がおち、福山中腹の幸山城などの支城もおち、遂には松山城がおち、常山城が最後の合戦地となったらしい。鬼身城は各城が見渡せる要であったのがよくわかる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 15, 2021 12:02:20 AM
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