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2022年06月18日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
二 三遠農学社 
 「浜松市史」三の「第三章 町制の施行と浜松町の発展 第二節 報徳運動の推移 第二項 浜松と報徳の人たち」のなかで、
「松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社」という項目を設ける。
 松島授三郎(明治三十一年没、六十三歳)、豊田郡羽鳥村の人。明治元年(一八六八)天竜川の堤防が決潰すると、下石田村神谷与平治と相談し、荒蕪地をよく開墾した。八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を社長とする農学誠報社を設け村民の風俗の矯正に力を尽したが、十五年居村に西遠農学社を創立、夜学部を設け、自弁で農学の研磨を主とし、かたわら道学を講じたが、入社を乞うもの千余名に達したので、気賀、奥山に支社を設けた。十九年西遠農学社本館を設立、その説を聞くものも次第に増し、遠州において七郡、三州において二郡に及んだ。三遠農学社と改名、社員の数三千余名に達したという。西遠農学社が明治十八年十一月四日呉松村鹿島神社で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の社側朗読、神谷力伝の貧富図解、松島吉平の救済策などの演説があって懇親会に移り「満場沸くがごとく夜十一時散会した」という(『静岡大務新聞』)。明治十八年七月天竜川がまた決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈って、その窮を救った(『嶽陽名士伝』『静岡県人物誌』『引佐麁玉有功者列伝』)。」
 「三遠農学社と報徳農業道」においては、
「三遠農学社はその成立は古く、静岡県と愛知県とにわたり、報徳の教えを奉ずる民間の有力者、篤農家をもって組織する特殊な団体であり、農事の改良、人心の教化、農村振興のために多大に貢献している。以前、同地方の人が言うに「掛川の報徳は貯蓄を本位としているが、三遠農学社は、農業の改良発達に重きを置き、報徳を業道の上に生かしている」と言ったが、これは当時の三遠農学社の状態を表している。まだ農会も、試験場も、産業組合もなかった頃から、互いに農業を研究し錬磨した結果を持ち寄って、芋や煮豆で質素な食事をとりながら、大いに農事の改良・発達を談じ、家を整え農業を尊び勤労の民風を興起して農村振興のため、積極的行道の活動を行ったことは、報徳の真の精神にかなうものである。
 それゆえに三遠農学社の社員は、自ら大地に立って勤労創造する人たちの集まりで、鋤や鍬を取らない金持ち、大地主等のいわゆる顔役はなく、肩書も地位も必要でなく、天爵無位、真に勤労耕作民ばかりの会であることは、全く他に見られない特色を有する。三遠農学社主義にあるように、天地を賛し、勤労を尊び、智慧を進め、創造に目覚めて、勤労する者の自由と幸福の安楽世界を真の生活とするところに、報徳の理想が躍如とし、報徳ならではできない地上楽園の光明思想がみなぎり、百姓安楽国の理想が高揚されている。」
「三遠農学社は、明治十二年八月、松島授三郎、野末丸八郎などの有志がはかって組織したもので、始めは三才農学誠報社と称し、報徳の教えと耕種の法を講習し、同十五年組織を改めて西遠農学社と呼び、社員の内外を問わず、広く各地に農談会を開き、農桑の方法及び処世人道を説き、地方の民風を篤からしめた。次第に盛大とな
り、明治二十年四月、三遠農学社と称するに至ったのである。」
「松島は二十一歳の時、下石田村神谷與平治宅で、安居院庄七から報徳の話を聞いて感動し、その後は平岩佐平、荒木由蔵について報徳の道を研究した。この松島についてはこういう話がある。松島は若い頃に易者に見てもらったところ、あなたは三十三歳の頃には大難があって命はないと言われた。そこで何とか長生きをする道はないかと考えた末、報徳の先生の荒木由蔵に話すと、「そんなことは心配しなさんな、報徳をやれば、きっと長生きができる」と言われて報徳の道の研究に励んだ。その後、明治二年、松島が三十三歳の時居村の羽鳥村で天竜川の堤防が切れて大洪水となり、松島の家も被害をこうむり、幸い屋上に上っていて辛うじて命だけは助かった。それが先年易者の予言した年だった。そこで松島は大いに感じて、これは全く報徳のお陰であったと喜び、ますます報徳のために心身を傾けるようになり、その年の秋、隣村石原村に仕法を行い、五十戸の住民は救われた。それ以来、報村の道に精進すると共に、地方を教化し、明治十二年伊平村に農学誠報社を組織したのが、三遠農学社の前身である。
 当時、諸方に報徳の結社ができ、善種金を積み、加入金を蓄え、縄ないを行い、勤労・分度・貯蓄・推譲は行っていたが、一歩進んで農業を研究し、生産と福利を挙げようとする農業道の自覚も、産業増殖の認識もなかった。松島はこの点を考えた。「二宮先生の教えに、農業の道は聖人の道に同じと言われている。今日農業は最も大切であるにもかかわらず一番遅れている。その一例を挙げるならば各都会より地方の書店に行って農書を探しても一冊もない。農業は国の大本とあるのに、農書一冊もなく、農事の研究をする人が一人もないというのは嘆かわしいことだ。我々こそは有志を集めて農事の研究を行い、農談会を開いて増収をはかろう。これは報徳と言わない報徳である」と。松島はこの信条をもって同志を語らい、遂に農学社を創立した。このために独自の特色を有するに至った。」
「三遠農学社は、明治十二年八月三才農学誠報社として創立され、十五年に西遠農学社といい、明治二十年に三遠農学社と改称したものである。その趣旨は、報徳の道を基に農事の改良発達と、農村の福利増進を計り、農村を楽土としようとするものであった。したがって三遠農学社の事業には推称すべき事が多い。特に明治十五年より巡回員制を定め、巡回員を各地に派遣して農談会を開いた。遠州全土を初め、駿河、三河、伊勢方面に対して、年々百回ないし百五十回に及んだ。同十八年天竜川が氾濫して稲苗が流出したので、引佐郡内の余った苗二十万余束を集めて罹災地に送付した。同十九年には松島十湖が主幹となり本社を気賀町に新築した。二十年には米麦試作委員を置き、また麦、茶、繭の品評会を催し、種苗交換会を行った。二十二年天竜川の堤防が破れて洪水が氾濫すると、農家は種籾を失ったので、種籾を広く集めて罹災地に配付した。二十四年、三遠農学社耕作法を定め、米麦栽培の方法を示し農事の改良を計り、また全国各地方に農談会を開いて農事の指導をした。当時、三河、伊勢、肥後、佐渡、越前、美濃、尾張、信濃、遠江、伊豆、駿河、相模、武蔵等にわたり、社員数二千七百九十六人に及んだ。
 明治二十五年米麦十俵作品評会を行った。農学社の勢力は次第に拡大し、駿河、遠江、三河等にわたり、非常に発展し社員一万有余に及び、各地に支社を置いた。三河に宝飯分社と東三支社、駿河に西駿支社等である。明治十九年以来社長だった松島は三十一年に死去し、渡瀬友三郎が社長となり、遠州に中遠支社、西遠支社を創立し会員二万を越えていたが、大正六年に渡瀬氏死去するや、大正七年九月山崎延吉氏が社長となり、農民精神の徹底と、農業経営の改善に努め、農村の福祉の発展のために尽くしている。
 大正七年遠州に支社が設立され、現在活動しているのは、東三支社(三河野田)中遠支社(静岡中泉)大正支社(浜名豊西)西遠支社(浜名芳川)等であるが、毎年秋季には大会を開き、金子律平、水谷熊吉氏を始め、有力の人々が相寄って、伝統を持続している。そして今日もなお米作に、麦作に、養蚕に、茶に、果樹に、養鶏養畜に、農業経営にそれぞれ深い研究と手腕と識見とをもっているものが多く、それぞれ活動している。
 また農学社にては、荒木由蔵、松島授三郎、渡瀬友三郎、鈴木浦八、平井重蔵、木村武七氏等を始め、三遠農学社に恩顧あり、功労のあった人々の彰徳碑を建てて、報恩の道を全うしている。
三遠農学社は明治初年より今日に至るまで、報徳の教えに基づいて、農凝を尊び勤労を重んじ、研究進取をめざして農村の福利増進を計って来た所に、多大なる功績と独自の存在があるのである。」





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最終更新日  2022年06月18日 15時17分44秒
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