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カテゴリ:遠州の報徳運動
三遠農学社の八老農 野末九八郎、井村又三郎
三遠農学社の八老農、野末九八郎、平岩佐平、井村又三郎、名倉藤三郎、夏目喜平、神谷與平治、荒木由蔵、松島授三郎のうち、野末九八郎については三遠農学社の前身となる農学誠報社を松嶋授三郎と共に立ち上げて、初代社長となった以外は現在のところ不明である。 井村又三郎には次の著作がある。 1 自家経済之予算 図書 井村又三郎 著 (井村又三郎, 1890) 2 麦の説明 図書 井村又三郎 著 (井村又三郎, 1890) また「引佐麁玉有功者列伝」(国文学研究資料館)の「三老農伝」において井村又三郎が顕彰されている。井村又三郎は「貯穀除虫方法」の後書きに「右は多年実験した所で報国の一端ともなさんと欲する故に今回印刷に付し有志者にわかつ」と記した。又三郎はこのように自ら実験し効果があると認めれば直ちにこれを人に伝え、あるいはこれを筆記して世の人に頒布した。井村は松嶋授三郎と相談し明治15年西遠農学社結成に尽力した。その定会の日には必ず自ら培養した穀類や野菜などを携えて出席し成熟の良否を示し培養の方法を説き、あるいは農具の便利か有益かを弁じ、満場の人々を感動させた。又三郎のこうした農事に精励する姿勢は遂に引佐郡の農民の旧癖を一変させた。 井村又三郎は文政四年二月に引佐郡刑部村に生まれ、少年の頃から六十の今日に至るまで、必ず農事改良に尽力したとある。 「引佐麁玉有功者列伝」(松島吉平著)の「三老農伝」において、井村又三郎について次のように顕彰している。読みやすくして紹介する。 「井村又三郎は遠江国引佐郡(いなさぐん)中川村の人である。専ら心を農事改良に注いで、かつて人に語って曰く、業を為すは器の便否を考えなければならない。そうであるのに、わが郷里の農民は三叉鍬及び平鍬を用いるほか、別に耕うんの法が無いのではなかろうか。ああ僅々たる人力のみをもって耕うんを業とすれば、いずれの日か農事盛大の時を見るであろう。農事をして盛大ならしめようと欲するならば、牛馬耕に超えるものは無いと。断然志を起し、牛耕を試みたが、果して便益は少なくなかった、ここにおいて人は皆な氏にならって牛耕を行うに至った。引佐郡にこの事あるは氏をもって嚆矢(こうし)とする。氏はまた土地が瘦せ、収益の無い土地に堀り貫き井戸をうがって、畑を田に応用することを工夫したが、その収穫の量は、良田に譲らないだけでなく、米の品質も良田にまさっていたという。始め氏がこの説を唱えたところ、その説の新奇であることから、聞く者は皆なこれを信じなかったが、その収納を観て、賛嘆しない者はなかった。氏はまた種子の精選と交換とは農家の緊要不可欠の件であることを信じ、同業で会う機会があればこれを説いた。人々はまたこれを知らないわけではなかったが、その煩雑さを厭い、これを実施する者はほとんど稀であった。氏は非常に活発進取の気象に富んでいて、これを見て思うに、種子精選は怠惰な農民が容易に行うことができないところである。私が自ら多量の種子を選んで、これを人に与えたほうがよいと。そこで自ら選んだ種子を数年間あるいは与え、あるいは交換したが、その実益は少なくなかった。そこで遂に従来の惰農者をしてその非を悔い、大いに奮起させたという。 引佐郡気賀村地方で有名な物産である琉球表は、その製造が次第に粗悪におもむいていた。氏は深くこれを憂えて、明治15年4月中、その由来と培養製造の利害得失を詳しく論じ、これを印刷に付して、四方の有志者に配ってまわった。また穀類の虫の除去方法には、近来いろいろあるが、簡易でしかもその効果を奏するものが無かった。そのため氏はその方法研究に心を砕いて、多年の経験を積んで、一つの方法を発明した。そしてこれを世間に示すため、その本を数千部印刷し、これを有志者に配布した。氏はこのように自ら実験して有効と認めることがあれば直ちにこれの記述をもって人に伝え、あるいはこれを筆記して世の人に頒布するなどした。いやしくも愛国の心情が厚くなければできないところである。氏はまた松嶋授三郎とともに明治15年中、西遠農学社を結社する事に奔走尽力した。その定会日には必ず自ら培養する穀物野菜の類いを携えて出席し、成熟の良否を示し、培養の方法を説いて、あるいは農具の便否得失を弁じ、満場の人をして感動させた。ああ、氏の農事精励の至れる所、遂に引佐郡の農民をして旧僻を一洗させたという。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年06月19日 14時41分28秒
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