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2022年07月16日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
岡田佐平治の伝
 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。
 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。
 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。
 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。
 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。
 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。
 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。
 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。
 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。
 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。
 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。
 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。
 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。
 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。
 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。





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最終更新日  2022年07月16日 16時42分59秒
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