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カテゴリ:遠州の報徳運動
六 遠江国報徳社
1 所在地 2 沿革 3 組織 4 事業 一 貸付 二 風教 三 殖産興業 四 教育 五 難村救済 5 本社支社社員数及び資産 6 創設者岡田佐平治の小伝 7 現任社長の略歴 遠江国報徳社 1 所在地 本部を遠江国浜名郡浜松町に置き、同国見付町〔磐田市〕及び掛川町に支部を置く。 2 沿革 嘉永元年(一八四八)相模の人、安居院庄七という者が遠江に来て、始めて二宮尊徳の教えを説いて勤倹推譲の道を教えた。当時、民力は窮乏し、人情は浮薄に流れていたので、有志者がこれを憂え、いたる所で安居院を招いて結社し、この救済の道を講じた。嘉永六年(一八五三)八月佐野郡倉真村岡田佐平治、周智郡森町山中利助外六名は安居院と共に二宮尊徳を日光に訪問し、親しくその教えを受けた。日光から帰ってきて一層報徳の道を唱導した。以後毎年一回遠江各地に報徳大会を開いて、勤倹推譲の道を講じた。安居院庄七はよく各社を統一したので、結社の数は次第に増加した。文久三年(一八六三)に安居院庄七が亡くなり、報徳の講師がいないため、この招聘について、福住正兄に相談した。福住正兄は小田原報徳社員福山滝助を推挙した。滝助は専ら報徳結社を誘導したことからその数は大いに増加した。これによって各社を統轄する必要を生じて始めて遠江国報徳本社を浜松町に設置した。明治八年(一八七五)十一月十二日です。岡田佐平治がその社長で、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源次等が幹事でした。毎月十一日をもって会日と定めた。集会する社員は常に数百名を下りません。同年岡田佐平治は社長を辞任し、その長男岡田良一郎が社長に推選された。後に見付町及び掛川町に分館を置いた。明治三十二年(一八九三)、民法の施行に際して許可を得て法人とした。 3 組織 本社は定款の規定により毎月一回社員を集合し、報徳の道義を講義し、農工商業改良の方法を研究することを目的として、本社を浜松町に置き、支社を置きます。これを町村社という。この目的を達するために土台金・善種金・加入金の制度を設けます。土台金とは、社員入社の義務金及び町村社社員の随意寄付金等より成立し、町村社設立の基本金または勧業奨励等のために支出します。善種金は社員の義務金及び町村社社員の随意寄付金により成立し、十円をもって一口とし、その証書を交付し、これを永安証券と称します。十円未満のものにはその額が十円に達すると証書を付与します。年五分の利息を付し、一口百円になれば善種応報金としてその半額を寄付者に下付し、以後百円に達するごとに善報金を授けます。この善報金は荒地の開墾、道路の改善、商業資本及び肥料買入等のために町村社の要求に応じて貸し付けるもので、その貸付方法は無利息五か年賦とし、六ヶ年目に至り恩謝金として年賦一年分を納めさせます。これを元恕金と名付けます。加入金は無利息または利付預かり金で、産業振興の資本または子孫の教育金等の名義で蓄積します。町村社においては天災地変に備え金銭・穀物の貯蓄を行う制度があります。本社には、社長一人・副社長一人・幹事二〇名あって、おのおのその事務を処理します。その他訓導二八名、農事講師七名、勧誘委員四八名、組合取締四〇名を置いて、教化及び結社の勧誘、町村社の取りまとめを行わせます。 4 事業 一 無利息貸付 貧村及び社員の救済または殖産興業・水利土木の資金として町村社に対して無利息貸付を行った実績は明治十一年(一八七八)より同三十六年(一九〇三)まで四万二千円余円に達します。今これを区別すれば次の通りです。 二 風教 報徳社は主として質朴を尊ぶために、毎月の定会に出席する者は数里の外からワラジをはいて弁当を携えて定刻に必ず到着します。その質朴の風は一見して報徳社員であることが分かります。祝儀や不幸の際には互いに倹約を尊び、相互に助けあいます。報徳社は勤倹推譲を旨とします。ぜいたくや怠惰の者及び不道徳の者もいったんこれに加盟する時は、次第にその行いを改めます。ですから結社の所在地にあっては芝居狂言等の興行があることを聞きません。裁判や訴訟は多く和解するため、社員相互の間にあっては、出訴は非常に少ないのです。また農業に努める精業善行者を賞与する規則を定め、本社で表彰式を行いました。前後七回、受賞者三一二人になります。町村社にあっては明治三十一年より三十六年末まで約三千人の多くが受賞した。 三 殖産興業 1 小笠郡中内田村森組報徳社社長浅羽平八及び社員の発起に係る共益製茶販売組合は社員が製造した緑茶を収集してこれを精選して箱詰にして横浜に販売する。始め森組報徳社員の製茶に限って共同販売を行っていたが、次第に拡張して一般に及んで大いに横浜貿易商の信用を博し、製茶販売の上に大きな利益を得た。明治三十六年の販売代金は十四万円以上に達し、年ごとに盛況を呈するようになる。小笠郡地方は皆共益社の法にならって各所に製茶共同販売組合を設置するようになる。これは報徳社員浅羽平八とその弟平九郎が率先尽力した所に起因します。 2 掛川信用組合は遠江国報徳社長岡田良一郎が唱して創立した所です。始め同人が佐野城東郡長だった時に、報徳の方法によって勧業資金の法を設け、一口を金十円と定め、十か年出金し、五分利で利殖し一千口を募集し、荒地開墾、工業資本、道路堤防改善等公共事業に貸し付ける目的で経営し、十年で資本金はすでに一万一千余円に及びました。そして溜池費に五千六百円、道路改修費に一千三百四十円、開墾費に千四百五十円、その他勧農上に貸付を行ったもの二千六百十円で、実効ようやく明らかになろうとするに当たりその取扱いを嘱託した資産金貸付所の組織変更と共に一時解散することが止むをえなくなる。そこで掛川信用組合と改称し、資本総額を十五万円と定め、一口の金額を五十円とし、積立利子を七朱、貸付利子を八朱と定めてこれを行い、。数日で満員となる。明治三十六年十二月現在、資金九万九千三百六十三円九十一銭、組合員四百九十二人に達しています。 3 見付町報徳社はこの法にならって、報徳社連合信用組合を設置して金融上非常な便利を得ています。明治三十六年十二月現在資金二万二千六百九十四円四十銭組合員二百二十一人。組長は故遠江国報徳社副社長伊藤七郎平が兼ねた。 4 浜松町報徳信用組合は明治三十五年の設立で、明治三十六年十二月現在、資金四千四百三十八円七十銭、組合員二十七人皆報徳社員の発起に係るものです。 5 東京小名木川の日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で、資本金二百万円を有する日本第一の精糖所です。鈴木藤三郎による特殊な発明は純白な氷砂糖です。始め藤三郎は資本金が少ない菓子商でしたが、森町報徳社に加入し商業の真理を悟って、いわゆる元値商いの法によって次第に商業が繁盛し、かたわら氷砂糖の製造に熱心に努めました。時に野州今市に二宮尊徳の法会があります。藤三郎はこれにおもむいた帰り道、宇都宮の旅宿において隣室に宿泊していた学生の化学談を聞いて、大いに悟るところがあった。これによって純白透明な氷砂糖を製造することができた。これから工場を改造し、大いにその業を拡張し、後に東京に移住して、遂に今日の大成をなすに至った。藤三郎は氷砂糖製造を二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開いて工場の役員を始めとし、職工等を集めて報徳談を行い、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したため、報徳の教えはその間に行われた。藤三郎は現在同会社の専務取締役で、資産は数万円に及びます。同志者の吉川長三郎もまた同社の取締として藤三郎と心を合わせて協力しています。吉川もまた遠江国報徳社の社員です。 💛やっと、「静岡県報徳社事蹟」の表をエクセルで作成しなおして、ワードに張り付けた。 幾分、空白が目立つ箇所がある。写真か補注で埋めてまいろう。 昨日、音楽の日で 優里が「ベデルギウス」という壮大な歌を歌っていた。 ベデルギウスは、オリオン座にある恒星で、一等星。おいぬ座のシリウス、冬の大三角形を形成する。 歌詞に「誰かと繋ぐ魔法」とある。 「静岡県報徳の師父」シリーズが次の世代の誰かとつながるように「魔法の言葉」を唱えよう(^^) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年07月17日 15時43分27秒
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