小さな月の街。
今から36年前、アポロ11号は人類史上初の月面着陸に成功した。何十億年、何百億年と夜の地球を見守ってきた月。人類にとって重要な存在のひとつとも言える月に降り立つということは全世界の人々が夢に見てきたことだろう。それが現実になったのだ。そしてその月の様子はというともちろん森もない、海もない、一面、岩石と土壌に覆われたモノクロの世界だった。決してそれは残念なことではないけれどしんと静まり返りただ冷たく光るその場所は夢の場所でありながら寂寥たる眺めだと思う。月と言えば今日私は小さな月の街に降り立った。先日求人情報誌で、私が生まれてから11年間過ごしたある団地の歯医者さんの名前を見つけた。私の家庭の雰囲気が大きく変わったのは今の住まいに引越してから。今までどれだけあの団地での生活を惜しみ懐かしく思ったか。そこは私にとっての夢の場所でもあった。そんな思い出あふれる街の歯医者さん。あの場所で働けたらどんなに幸せだろうか。私を育ててくれたあの街に恩返しがしたくてどうしてもそこで働きたいと思いすぐに電話をしたけれどもその気持ちの裏にはまたあの頃のような家庭に戻れるのではないか、と叶うはずのない夢を抱いていた。そして面接日の今日、期待と緊張が入り混じる中私はバスを降りた。そこはいつもと変わらないだろう風景。ただ平日のお昼だというのにそこは静まり返っていた。念のため1本早いバスで来たので辺りを散歩する時間はあった。ところが商店街を通っても保育園の脇を通っても、声一つ聞こえなかった。商店街も半分くらいのお店はシャッターが閉まっている。ふいに落ちてきた枯れ葉のように、目の前を若いカップルがくるくると回りながら楽しそうに、しかし寂しい影を残しながら走り去っていった。小学生の時、立ち並ぶ団地を見て「団地がずんずんとこっちに向かって行進しているようだ」と言って先生に褒められたことがある。けれどもその団地も今ではまるでもの言わぬ岩のようにずんと重たい腰を下ろしてうずくまっていた。そこは光り輝く夢の場所だけれどそう呼ぶには少し静かすぎた。そう、それはあの月のようだった。面接の合否は明日の夜連絡がくる。受かれば私は晴れてあの地で新たな一歩を踏み出すことになる。あのモノクロ土壌の上にくっきりと残ったアームストロング船長の足跡のように。