カテゴリ:演奏会(2012年)
もう終わりにするつもりだった2012年の個別の演奏会の感想、ティーレマンのブルックナー7番を追加しておきます。 終楽章の堂々たる音の大伽藍は、実にもう立派なもので、終演後にはものすごいブラボーの嵐となりました。普通にいえば文句のつけようがない、完成度の高い、立派なブルックナー演奏でした。大感動された方は多いかと思います。 ティーレマンは、第一・第二楽章を抑え気味とし、第四楽章に大きな頂点を作ることを明らかに目指していました。そしてその意図は申し分なく実現されていました。 これがブルックナー4番とか5番とか8番なら、この意図でもまぁいいと思います。それらの曲では、終楽章にもう一つドラマが生成し、起承転結のドラマが展開するからです。でも7番の作りはそれとまったく違います。7番では第一・第二楽章が曲の中心であり、そこに重点があります。語られるべき中核はこれら二つの楽章で語られ終わっています。終楽章それ自体には、生成して展開されるべき新たなドラマはもはやありません。終楽章が始まった時には、もう結論が出ていて、終楽章はその結論を確保・確認するような意味合いを持つ。そのように僕は思っています。 つまり7番は、ちょうど古典派の交響曲の構造的バランスを持った曲だと思います。たとえば古典派交響曲の金字塔たるベートーヴェンの5番の終楽章が、始まったとたんにもう結論は出ているというのと、同じ構造です。シュ-ベルトのザ・グレートも同じです。こういった構造の曲の演奏では、第一・第二楽章をともかく音響的に充分に表現しつくして、意味内容を充分に語りつくすことが、必要不可欠だと思います。それがあってこそ、それら先行楽章の音響内容、意味内容を受けて結論を確認する第四楽章の存在が意味を持ってくる、と僕は思います。 7番の第一・第二楽章は、決して曲の後半に向けての準備ではありません。今回のティーレマンのように第一・第二楽章を抑えて、語るべき内容を我慢して我慢して、精神的エネルギーを解放しないで通り過ぎてしまうのは、曲の構造に背いていると思います。そのあと終楽章で突然どんなに立派に堂々と結論が語られても、その結論に僕は説得力を感じません。 ・・・ブルックナーの7番は古典派の交響曲構造の枠組みで成り立っている曲であり、終楽章自体にはドラマはないということ。そのことを踏まえて、第一・第二楽章の深い内容が十全に表現され、かつその内容をしっかりと受け止める第四楽章になっていること。この楽章相互のバランスが高い次元でとれていることが、僕にとっての7番の名演です。今回のティーレマンは、終楽章に偏ったそのバランスの悪さが、僕は大いに残念でした。(2010年にN響を振った尾高さんも、同じように第一・第二楽章 を抑えすぎ、第四楽章に大きな頂点を築こうとするアプローチで、どうにもしっくり来ませんでした。)
現在53歳のティーレマン。今後彼のブルックナー演奏は、どう変貌して行くのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.01.08 00:05:09
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