BGM選手権、10月18日の出題は、中原中也の「月夜の浜辺」でした。お題は、番組ホームページの「お題はこちら」に載っています。
月の光の音楽といえば、ドビュッシーの「月の光」と、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」が、2大有名曲ですね。この2曲の投稿はきっと多数あったのではないか、と想像します。きらクラ!の放送でも、BGM選手権の終了直後に三舩さんの生演奏でドビュッシーの月の光が演奏されました。
ベートーヴェンの「月光」に関しては、昔読んだ吉田秀和さんのエッセイが忘れられません。「音楽の光と翳」に収められた「月光ソナタ」です。今回久しぶりにその本を引っ張り出して、読み返しました。吉田さんが高校生のころ、ドイツ語の先生のお宅に良くお邪魔して、先生とたくさんのおしゃべりをしていたそうです。その先生が、あるとき、奥様にせがまれてピアノを買って、それから吉田さんは、先生の家にでかけると何時間もピアノを弾いていたそうです。しかしそれから何年かしたとき、奥様が急に、あっという間の病気でなくなってしまいます。そのあとから最後までの部分を、引用します。
(ここから引用)
カトリック教徒だったので、教会で葬儀があり、その近くの墓地に埋められた。東京近郊のごく簡素な教会と、ひっそりと人っ気のない墓地での行事だった。その間ずっと先生のお供をしていた私は、埋葬のあと、先生を一人お帰しする気になれなくて、朝ごいっしょに出たお宅に、また戻ってきた。先生は黙って書斎に入っていかれた。私は、しばらく、一人で坐っていたが、何だか悲しくて悲しくて、つい、そばにあるピアノのふたをあけ、そっとひき出した。そうでもしないと、いたたまれない気持だった。私は、いつの間にか、《月光ソナタ》の初めの楽章をひいていた。静かに静かに、速くならないように、いつも同じゆっくりしたテンポで、音もほんの少ししか大きくも小さくもしないように。注意のすべてをそこに集中してひいていると、涙がとまり、初め涙でよくみえなかった鍵盤がみえてきたころは、涙も乾いていた。そのうち、第一楽章が終り、私は、そのまま、じっとしていた。
そうすると、書斎の戸が少しあいて、向う側から声がした。「もう一度ひいてくれないか」。私は、もう一度、前と少しもちがわないよう、ゆっくりと、注意深く、ひき出した。
私が、ベートーヴェンの《月光ソナタ》には、その中に秘められた静けさと同じくらい、きく人の心を慰める力がこめられていると知ったのは、その時である。それ以来、私は、人間の苦悩に語りかけ、悲しみを慰め、それをいやすよう働きかける力こそ、音楽のもつ最高の性質の一つだと信じるようになった。
(引用おわり 吉田秀和著、「音楽の光と翳」から「月光ソナタ」の最後の部分)
ベートーヴェンがこの曲を作曲した14年後、シューベルトが、ヘルティという詩人の詩に、歌曲「月に寄せて」D.139を作曲します。ピアノ伴奏の右手の静かな分散和音は、ベートーヴェンの「月光ソナタ」の右手に明らかに基づいていると思われます。このピアノが醸し出す、月の光が輝く静かな夜のもとで、憂いを帯びた歌が歌われる、美しい曲です。
このシューベルトの歌曲をチェロとピアノに編曲した演奏が、今回僕が投稿した曲のひとつです。チェロが歌う切なくも美しい調べは、波打ち際で立ち尽くす中也の心情にやさしく重なり、心に深く沁みるように思いました。
「月夜の浜辺」は、作者自身が、詩集「在りし日の歌」の「永訣の秋」の一編に収めています。「月夜の浜辺」の次の詩は「また来ん春」で、そのあとには「月の光 その一」、「月の光 その二」と続きます。。。
失ってしまった大切なものを、慈しむ想い。その悲しみがなくなることはないにしても、悲しみを慰め、それをいやすような何かを、人は求めます。音楽は、その一つであり、それが吉田さんのおっしゃるように、「音楽のもつ最高の性質のひとつ」なのだと思います。