BGM選手権、今回のお題は佐藤春夫の『我が一九二二年』から「或る人に」でした。4枠採用。
アルベニス アストゥーリアス ギターによる演奏 (大根おろしさん)
ラヴェル 序奏とアレグロ (歌うつぐみさん)
ラモ― 「優雅なインドの国々」から“未開人たち“ (ジャック天野さん)
ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第2番から第2楽章 (さとたかさん)
今回も多彩なBGMに魅了されました。
ラモ―の作品はBGM選手権初登場でしょうか、ユニークな視点のジャック天野さん、おめでとうございます!美し路線のショスタコのさとたかさんは、先日のペルトの感動がさめやらぬうちの採用、すごいです。ベストとなったのは、夢の世界の雰囲気たっぷりのラヴェルでした。個人的には、不安がどんどん迫ってくるアルベニスが好きでした。
一応僕の投稿した曲を書いておきます。
シュニトケ ヴィオラ協奏曲、第一楽章
https://www.youtube.com/watch?v=_-BrOGirXh4
これはバシュメットのヴィオラです。
ところでこのお題ですが、文学にからっきし疎いので、恥ずかしながら佐藤春夫さんって誰?状態でした。「或る人の亭主」が谷崎潤一郎、「或る人」はその最初の妻千代、実体験の話だったんですね。このあたり知らないことばかりで、興味を覚えたので多少調べてみました。
以下の記述は、主として
http://blog2.hix05.com/2013/02/post-304.html
http://hagakurecafe.gozaru.jp/iro10tanizaki.html
http://blogs.yahoo.co.jp/ym7562/64748480.html
およびウィキペディアを参考にさせていただきました。
以下、谷崎を軸にして時系列で並べてみました。
いかんせん付け焼刃の知識ですので、細かなところにはおそらく誤りがあるかと思いますが、その責任はもちろん私にあります。
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☆谷崎は芸者お初にぞっこんで求愛したが断られ、お初から妹の石川千代を紹介された。
1915年 谷崎潤一郎(当時29歳)が石川千代と結婚。
1916年 長女・鮎子が誕生。
1917年 谷崎より6歳年下の佐藤春夫との交流が始まる。谷崎は千代の妹・せい子を好きになる。
1918年 谷崎の推挙により、佐藤春夫が文壇にデビュー。
1919年 谷崎は病弱の鮎子のため小田原に転居。
☆谷崎の家に出入りするようになった佐藤は、谷崎から冷遇されている妻千代に最初同情し、それがやがて恋心に発展。一方谷崎は、千代の妹・せい子(当時まだ10代半ば)にぞっこんとなり、手元に引き取って鎌倉で生活し、溺愛する。せい子はのちの『痴人の愛』(1924-1925年)のナオミのモデルとなった女性。谷崎はせい子と結婚するつもりで、佐藤春夫に千代を譲る約束をする。佐藤は喜んだが、千代はなかなか決心がつかなかったらしい。しばらくそのような不安定な関係が続く。
1921年 谷崎はせい子から結婚を断られてしまい、それまで冷たくしていた千代を手放すのが惜しくなり、前言を翻す。佐藤は千代にあつい想いの手紙を書くが、気持ちは通じず、怒った佐藤は谷崎との交友を絶つ。これが「小田原事件」と呼ばれる。
☆佐藤は絶望し自暴自棄となり適当な結婚をするが、結婚生活はまったくうまくいかなかった。
1926年 佐藤と谷崎は和解する。谷崎の家に、和田六郎という青年が弟子として居候をはじめる。
1927年 谷崎はのちに妻となる根津松子と知り合う。
☆和田は千代を好きになり、谷崎も二人の交際を認める。そして谷崎は和田から千代との恋の様子を詳しく報告させ、それをもとに小説『蓼喰う蟲』(1928-1929年)を書く。
1929年 千代を和田に譲る話が出るが、佐藤が猛反対し、話はつぶれる。千代は和田の子を妊娠し堕胎したという。和田は去る。
1930年 千代は谷崎と離婚し、佐藤と結婚する。このとき3人連名の離婚と結婚の挨拶状を発表した。これが「細君譲渡事件」と言われる。これで佐藤は、千代と出会ってから約10年の時を経て、ようやく結ばれる。
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こういった流れの中で、「1922年」という時期をみると、小田原事件の1年後で、佐藤春夫、悲しみと絶望と苦悶の日々の只中ですね。佐藤春夫の代表作「秋刀魚の歌」は、千代への愛がかなわない嘆き・悲しみをつづったもので、お題の「或る人に」と同じく『我が一九二二年』に所収されています。
こうみてくると、佐藤があまりにもかわいそう、谷崎はなんと酷い人間だと思いたくなりますが、ひとつ興味深いニュース(2015年4月)を知りました。谷崎の未公開書簡が見つかったというニュースです。
http://www.sankei.com/life/news/150404/lif1504040015-n1.html
谷崎は、「細君譲渡事件」のあと、二人目の妻との結婚・離婚を経て、1935年に17歳年下の松子と結婚し、生涯の伴侶とします。見つかった書簡は、谷崎が松子と結婚する前に、佐藤春夫にあてて出したものです。当時まだ他人の妻だった松子に対する恋愛の心情や不安を、「始(はじめ)て恋愛を知りたる心地す」と素直に打ち明けていて、谷崎と佐藤のあつい信頼関係が伝わってくる、というものです。これを受け取った佐藤は、なんと返信したのでしょうか。
それからこのニュースには、千代との間の娘・鮎子への225通の書簡も見つかり、娘に細やかな愛情を注ぐ谷崎の姿が浮かんでくる、とも紹介されています。
谷崎、佐藤、千代の三者の関係は、性愛と恋愛と友情とが複雑に絡みあい、はたからは小説よりも奇妙にみえますが、当事者たちにとってはきっと必然の成り行きだったのでしょう。