カテゴリ:きらクラ!
マルトゥッチの「追憶の歌」はとても好きで、いつかきらクラ!に投稿したいと思いながら、実行しないでいました。 今回、11月12日の放送で突然に、マルトゥッチ強化月間の開催が発表されたのは、僕にとっては大事件でした。これは今投稿するしかないと思って、頑張って投稿しました。幸いにも11月19日の放送で採用していただきました。 投稿したのはすごく長い文章だったので、仮に採用されたとしてもかなり削られるだろうと思っていましたが、番組では結構長く読んでいただいて、とてもありがたいことでした。でも一部はさすがに省かれましたので、ここに全文を載せておきたいと思います。 マルトゥッチの「追憶の歌」に関しては、以前このブログに書きました。 以下、全文です。 ------------------------------------------------ ふかわさん真理さんスタッフの皆様こんにちは。今月の強化月間がマルトゥッチときき、どうしてもリクエストしたい曲があり、投稿します。ソプラノとオーケストラのための「追憶の歌」です。 もう20数年ほど前、丁度娘が生まれた頃に、自分にとってかなりへこむ出来事がありました。そのときにたまたま聴いたCDで、この曲に出会いました。マルトゥッチの名前もそのときに初めて知りましたが、その歌が、声が、音楽が、胸になんとも深く沁みこみました。この曲を何度繰り返し聴き、何度涙を流したことでしょう。ちょうどその頃に読んでいた五味康祐氏の著作に、悔いと絶望のなかで音楽にどんなに救われたか、という体験が書かれていました。それと重なり合い、五味氏ほどの絶望状況ではなかった自分ですが、音楽の力を身に沁みて実感しました。そのCDは輸入盤で、英文解説から歌の内容の概要が、失われた愛を追憶するというものであることだけはわかりましたが、歌詞の詳細はわかりませんでした。歌詞の意味ではなく、ひたすらその音楽の美しさが、胸に沁み、僕は癒されていき、そうしてへこんだ時期を乗り越えました。 マーラーのシンフォニーからクラシックにのめり込み、もともと声楽より器楽に親和性が高かった自分ですが、そのときになぜかこの歌がとても胸に響いたのです。 その当時、歌という文字のことを考えました。「可可欠」という、考えてみれば一風変わった要素で成り立っています。この字の成り立ちの本当の意味は知らなかったし、調べることもしませんでしたが、自分なりに勝手に、歌とは、「欠」けている自分を、「可」能な限り「可」能な限り、高めていこうとする営みではないか、と思いました。ちょうど生まれた子どもにも、これからの人生いろいろなことがあるだろうけれど、どんなときも、自分なりの歌を歌って生きていってほしい。自分も、自分なりの歌を歌っていこう。そう思いました。 それ以来マルトゥッチの「追憶の歌」は、僕にとって特別の曲になりました。折に触れて美しい響きに耳を傾け、心洗われるひと時を重ねてきました。振り返ると、もう20数年が経ちました。自分なりに、拙いけれど、自分の歌をうたってきたつもりです。少し齢をとってきたためか、いつからか、歌という字の意味の捉え方が変りました。歌とは、「欠」けていても、いいんだ(「可」)いいんだ(「可」)と、自分を肯定する営みではないか。そんな風に思うようになりました。 娘も、ここまで娘なりに懸命に生きてきました。その娘が、来月結婚します。これからは夫となる人とお互いに、「欠点はあるけれど、いいんだいいんだ」と認め合い、支えあい、自分たちの歌を歌っていってほしい。心からそう願います。 そんなタイミングでのマルトゥッチの強化月間というのは、何かの巡り会わせなのかもしれません。番組で、「追憶の歌」から一部分でもかけていただければ幸いです。心新たにして、これからも自分の歌をうたっていきたいと思います。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[きらクラ!] カテゴリの最新記事
|
|