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2015.08.27
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カテゴリ:プロレス・格闘技
ありがとう16文.jpg


ひとりの不滅のヒーローがこの世を去った・・・

1999年1月31日、ジャイアント馬場・死去

この訃報により全日本プロレス中継は
急遽、特別番組として追悼番組
「ジャイアント馬場追悼~ありがとう16文」を放送した。

1938年、新潟県三条市み生まれた馬場は
1955年1月に読売ジャイアンツに投手として入団。

ジャイアンツから横浜ベイスターズに移籍したが
宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み
左肘に17針を縫う外傷を受傷、プロ野球を断念した。

1960年、力道山に日本プロレスへの入門を直訴。
同年9月30日、台東体育館にてデビューを飾り
1961年、渡米武者修行としてアメリカに遠征。

リングネームはショーヘイ・ビッグ・ババ
WWEではババ・ザ・ジャイアントと名乗り
NWA世界、WWE世界、WWA世界と
当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。

力道山死後の1965年、日本の至宝
インターナショナル王座を獲得し
NWAの大物レスラー、ジン・キニスキー、
フリッツ・フォン・エリック、
WWAの大物、ザ・デストロイヤー、
ボボ・ブラジル、
AWAの大物、ディック・ザ・ブルーザー、
クラッシャー・リソワスキー、
WWEの大物、ブルーノ・サンマルチノらと
死闘を繰り広げた。

そして馬場は生涯のライバル・アントニオ猪木と
タッグを組み、BI砲の名で世界4大タッグタイトル
インタータッグ王座を手中にし、
ブルーザー&クラッシャー、ザ・ファンクスら
超大物タッグチーム相手に防衛を果たしてきた。

しかし1972年、猪木は新日本プロレスを
馬場は全日本プロレス旗揚げと理想を求め、
BI砲は2度と復活しないだろうと誰もが思ったが
1979年8月26日、日本武道館にて行われた
プロレス夢のオールスター戦にて
アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たした。

馬場は全日本旗揚げ後はNWA世界王座を3度奪取し
限界説を否定したスタン・ハンセンとの試合、
全日本初の団体対抗戦、大木金太郎戦など
数々の熱戦を経て、3000試合連続出場を突破した。

タイトル戦線から退いた後はラッシャー木村や
百田光雄とファミリー軍団を結成し
悪役商会との抗争を開始、明るく楽しいプロレスを展開し
還暦試合では「60歳と言えば年寄りだなと思っていたが
いざ、試合をしてみると、
なんだ、まだやれるじゃないか」と発言した。

生涯現役を貫いた馬場は1998年12月5日までリングに上がり続けた。

そんな馬場の、もうひとつの大きな仕事が
後継者の育成で

渡米遠征から帰国した若手のジャンボ鶴田とタッグを組み
ファンクスの持つインタータッグ王座に挑み
天龍源一郎から日本人による初フォール負けを喫し
三沢vs小橋戦では解説席にいた馬場が
その試合内容に感動し泣いたというエピソードもあった。

そしてこの特別番組のラスト

仲田龍が泣きながらの「赤コーナー、300ポンド、
ジャイアント馬場」とコールを行なった。

ジャイアント馬場は私に取って
ファンの夢を与え続けた偉大なる人、
社会でのマナーや会社での考え方など
もっとも尊敬する人物でありました。


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Last updated  2015.08.28 07:02:11
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