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彩と宗太郎の引き出物、素焼きを済ませた茶碗たちに、ひとつひとつ慎重に釉薬を施していきながら、私は、マンションに戻ることなく過ごした、ここ1週間のことを思い出していました。結局、実家に戻った日は、夜中まで飲んでいたのに、翌朝はとても早く目がさめました。ガウンだけを羽織って階下におり、小さい頃から大好きだった、靄につつまれた早朝の庭を廊下から眺めました。薄い白に覆われた庭の緑の木々。何も変わらない庭。そうして眺めていると、その靄の中から、いつもどおりに、ランニング途中の悟が、また現れそうな気がしてきました。もちろんここも、悟との思い出だらけの場所。どこにいても、何をしていても、悟の気配が私を包みます。どのくらいそうして悟を待っていたでしょう。静かな声で過去から引き戻されました。「楓さん。おはようございます」振り向くと、サチさんでした。「お早いですね。眠れなかったんですか?」私は、にこにこして首を振りました。「よく眠れたんですね。よかった。お食事は?先生ももう起きていらっしゃいますよ」私がうなずくと、「じゃあ、準備して食堂でお待ちしています。その格好じゃお寒いからお着替えになってくださいね」私は、もう一度、庭を振り返り、靄がゆっくりと晴れだし、明るさを増した様子を少し眺めてから部屋に戻りました。朝食の席につくと、フジシマくんも起きてきました。私の前に座りながら、「いやに早いじゃん?ゆっくり寝るのかと思ってた」といいました。私が曖昧にうなずいていると、祖父が、新聞から目を離さないまま、「行本にいくつもりだろう?」とたずねました。私は祖父が気づいていたことに、少し驚きましたが、フジシマくんは、その言葉にもっと驚いたのでしょう。一気に目が覚めたような顔で私を見ました。私がうなずくと、「良一についていってもらったらどうだ?」と眼鏡越しに上目遣いでこちらを見ていう祖父。フジシマくんも、俺ならいつでも、という顔で見てくれましたが、私は首を横に振りました。二人は目を見合わせていましたが、同じようなため息をつき、「そうか。」と、祖父が言うだけでした。フジシマくんは心配そうに見ていましたが、いつものように何もいいませんでした。朝食の後、仏壇の前に座りました。目を閉じ手を合わせながら、私の記憶にはいない母を思います。お母さん、ただいま。久しぶりに家に帰ってきたよ。ごめんね、長い間ここにも座れなくて。色々あったんだ。知ってるよね?ねえ、お母さん。お母さんが生きていたら、おじいちゃんの言うようにいろんなことがもっとラクだったかな?私。そういう想像ってあんまりしたことないんだ。だって、お父さんもお母さんもいない私を、おじいちゃんはとても愛してくれた。周りのみんなは、とても大事に、育ててくれた。散々かわいがってくれたと思う。両親がいない、なんてこと、気に病む暇もないくらいに私はさまざまな愛情に包まれていたから、お母さんがいたら、なんて考える必要がなかったの。でも、お母さん、今日は、ちょっと力を貸して欲しいんだ。私、仏壇にいる悟に会いに行くから。ひどい状態にならないように、そっと支えてね。母への頼みごとが済むと、しばらく、庭のチェアの上で部屋から持ってきた本を読んで過ごしました。今日もいい天気。眩しい木漏れ日を浴びるのがとても気持ちよかったです。日が高くなってくるころ、本を置き、目を閉じ、少し気持ちを整えてから、私は1人、外に出ました。久しぶりに歩く道。その場所が近づくにつれ、つい、うつむきがちになる自分を、なんとか励まし、悟の家のすぐそばの四つ角までたどり着きました。そして、ゆっくりとゆっくりと、私が悟を失った場所、声を失った場所に近づきました。慎重に。心が揺れ、倒れたりしないように、そっと、塀に手をつきながら。『悟も、心残りやったろうなあ。』祖父の言葉を思い出しました。そう、きっと悟は、自分が死を目前にしていても、自分の体よりも、命よりも、私のことを心配していたでしょう。意識が途切れるその瞬間まで。もしかしたら、死んでからもずっと。もしかしたら、今もずっと。悟。私は目を閉じることなく、行本の家の前に立ち、インターホンを押しました。おそらくはモニタで私の姿を認めてくれたのでしょう。あわただしい足音が玄関に近づき、ドアが非常な勢いで開きました。「楓!」お母さんでした。変わらず、悟と彩によく似た目。私は、がんばって微笑み、頭を下げました。お母さんは、泣き笑いのような顔で微笑みながら、何かをこらえるように左手を口にあて、そっと私に近づき、右手で私の背中を抱くように家の中へと促しました。玄関に入ると、庭にいたらしい、お父さんが、後ろから、「楓?」と、声をかけました。心臓が止まりそうになる私です。悟によく似た声。お父さんだってわかっているのに、それでも、体ごと震えてしまいそうなくらい懐かしく、暖かい声に、胸が震えます。お母さんが察したのか、強く腕を支えてくれいました。私はやっとの思いで、振り返り、微笑みました。「よく来たな。さ、あがって」悟と同じ声に促され、私は、家にあがりました。 ← 1日1クリックいただけると嬉しいです。