box 9 ~悠斗~
慶介の後姿を見送り、稽古場の中に戻ると、冷蔵庫から出してきたビールを並べ、隅に置かれたテーブルで、残っているキャストと手の空いたスタッフで、既にプチ宴会が始まっていた。「おー、悠斗、こっちゃこい。お前もちょっと飲め」岬さんに呼ばれて、俺はその席に近づき、碓氷さんが黙って差し出してくれた、ビールの缶をひとつ受け取る。「ありがとうございます。いただきます」「おう。飲め飲め。今日は、さらによくなったぞ、悠斗。その調子で頼むぞ」ご機嫌そうな岬さん。確かに、初日を目前に控えて、俺だけでなく、どのシーンもいい出来のところにまで来ていた。「悠斗」隣に座った碓氷さんが、言う。「なんかさっき慌ててたけど、彼女に電話?」ばれてる。俺は、ちょっと照れながら、「はい。今日、いや、もう、昨日か、彼女、誕生日だったんで」「そうなんだ。おめでとう。彼女に乾杯」そういって碓氷さんの差し出す缶に、自分の缶をぶつけ、「ありがとうございます。伝えます」碓氷さんは、向こうで誰かと話している岬さんに背を向けて小さな声で「帰んなくていいの?岬さんなら僕が相手するからいいぞ?」俺は碓氷さんの気遣いに感謝しつつも、「いいんですよ。今日は会えないんで。ちょっと離れた場所の実家に帰ってるから」「そうなんだ。誕生日なのに。。。?」不思議そうに言う碓氷さんに、「ええ。まあ、ちょっと事情もあって」「事情、ねえ」至近距離でいたわるような目で見る碓氷さん。年に似合わないそのイノセントな瞳。見慣れてるはずなのに、今夜はなぜだか、俺は、落ち着きの悪い気持ちになる。そして、なんだか、不必要にもったいぶってしまったような気がして、事実をもらす。「・・なんか、楓の、、あ、彼女の名前なんですけど、楓のお母さん、彼女を生んですぐに亡くなったらしくって、今日は楓の誕生日でかつ、お母さんの命日でもあるんですよ」碓氷さんは、眉を寄せて、「そうなんだ。それは気の毒に。お母さん、心残りだっただろうなぁ。大切にしてあげるんだぞ、楓さんのこと、、って、してるか、悠斗なら」最後は、笑う碓氷さん。20歳も年上とは思えない気さくさと、人懐っこさで、キャリアはすごいのに、とても身近に感じさせてくれてきたヒトだけれど、今夜は特に。なんで、こんなに、親密に感じるんだろう。いや、もちろん変な意味では断じて、なく。「してますよ。大切に」碓氷さんはうなずいて、「ケースケが彼女を大切にするのと同じくらいに」「もちろん。負けてませんよ。」そういう俺に、にっこり笑って、ビールに口をつける碓氷さんに、俺からも聞く。「碓氷さんだって、大切にしてるでしょう?蒼夜ちゃんのこと」碓氷は、ただ、うなずく。うまくいってるんだ。何よりだと、思う俺。碓氷さんは、突然、ビールを置いて、ポケットから携帯を取り出す。光を放ちながら振動している。着信中だ。「おっと、噂をすれば、だ。」と言って俺に笑い、「蒼夜?」と、その場で話し始める碓氷さん。俺は、一応、聞いちゃまずいなと、耳をオフにして、ビールに集中する。あ~、うまい。幸せそうに話す碓氷さんの表情が目に入る。あ~、あんな顔見ると、俺だって、もっかい楓の声聞きたくなっちゃうよ。きっとあきれるはずの楓の声と顔を思い浮かべつつも、もう一度俺はケータイを取り出し、周りを見た。みんな結構盛り上がってるし、ま、いいか。ここでかけても。と、電話をかけようとしたときに、岬さんが、電話中の碓氷さんに話しかける。「なあ、碓氷くん。その相手、蒼夜ちゃんなの?ちょっと代わってよ」碓氷さんは、特徴的な大きな目と口をしっかりつかって顔をしかめ、電話に向かって、「聞こえた?岬さんだよ。この間会っただろ?ちょっと換わってくれってさ」そういって、相手の返事を聞きながら、「うん、そうか?嫌だったらいやだっていっていいんだぞ?」なんていってる。岬さんは、碓氷さんの頭をぽんと叩いて、電話を取り上げた。「もしもし?蒼夜ちゃん~?岬です。この間はどうも」あ~あ~、電話もってどっか行っちゃったし。笑ってビールを持った碓氷さんに話しかける。「なんか、岬さんて、蒼夜ちゃんのこと大好きですよね?」岬さんは、休憩のときにもよく、蒼夜ちゃんのことを碓氷さんに聞いていた。碓氷さんは、困ったように笑って、「みたいだな~。参っちゃうよ」「前から知りあいなんですか?」「いや。そんなによくは知らないと思うんだけどさ」碓氷さんは心持声を低めて、「実は、岬さんはさ、ずーっと、千夜狙いだったんだよね」「千夜さん?」俺は驚いて問い返す。千夜と言うのは蒼夜の母親で、大女優だ。「だけどさ、千夜が、水野と結婚しちゃったろ?だから、手っ取り早く蒼夜に興味の対象をさ・・」「え~~~っ、年の差、ありすぎっしょ?岬さんていくつですか?」って言ってしまってから、碓氷さんの年を思い出して、慌てて謝る。「・・すいません。いえ、ごめんなさい」碓氷は、吹き出して、「ははは。いや、謝らなくっていいよ。実際その通りだし。岬さんは、僕より2コ上かな。大して変わんないよ確か。」「いえ、それでも、碓氷さんは、若いです。全然、お似合いです。蒼夜ちゃんと。違和感ありませんよ、ほんとにほんとに。」慌てて言う俺に、碓氷さんは、余裕で、「はは、それはどうも。てか、どんだけ慌ててんだよ」って言ってから、くすくす笑う。そこに、岬さんが電話を持って戻ってきて、「はいはい~、じゃあ、名残惜しいけど、碓氷くんに代わるね」碓氷さんは電話を受け取り、「もしもし、変なコトされなかったか?」といい、「電話でどうやってするんだよっ?」岬さんに突っ込まれてる。碓氷さんは笑って、「また、後でかけるよ」と言って切った。岬さんは、手近にあったパイプイスに逆向きに座り背もたれに腕を乗せ、その上にあごを置いてから、「どうもね、碓氷くん。やっぱ蒼夜ちゃんていいよな~」「勘弁してくださいよ。岬さん」あまり深刻でもなさそうに、言う碓氷さん。「何が?電話くらいいいじゃない。だいたい、なんで、僕が、君を今回キャスティングしたと思ってるの?」「えええ?それって、蒼夜のコトでなんですか?」驚いてのけぞる碓氷さんに、岬さんは、まじめな顔で、「当たり前じゃないか」と言ってるし。俺は、口を挟む。「初演のキャストを入れるためじゃないんですか?」今回俺がやる役は、昔、初演の際に、碓氷さんがやった役だった。岬さんは、こちらを向いて、「ま、それも、あるけどね。メインはやっぱり、蒼夜ちゃんとお近づきに。だから、碓氷くん、蒼夜ちゃんのこと稽古場に連れてきてよ。」「断ります。あのね~。岬さん、やばいですよ。蒼夜のこといくつと思ってんですか?」岬さんは心外そうに、「バカ。自分のコト棚にあげてよく言うよ。それにさ、俺はそんな不埒なこと思ってるわけじゃないんだよ。そりゃ、千夜のことはさ、あれだったけどさ。蒼夜ちゃんのことそんな相手としてみてるわけじゃないよ」?どういう意味だろ?そう思う俺だったが、碓氷さんは、軽くため息をついて、「そっちだって勘弁してくださいよ。蒼夜、そんなつもり一切ないって言ってますよ」「何の話ですか?」碓氷さんは、俺の方を向いて、「岬さんは、蒼夜をこっちの世界に引っ張り込もうとしてんだよ」「こっちの、、?」岬さんも、俺の方に向いて、「だって、千夜の娘だよ。しかも、あのルックス。最近の若手女優は小粒だからね。絶対舞台栄えするはずの蒼夜ちゃんが、ぜひ欲しいんだよ」「なるほど~」俺は相槌を打つ。少し話したことがある程度だけど、蒼夜ちゃんには確かに天性の何かがありそうだった。碓氷さんは、「だから、本人がその気ないですって」「だったら、君からも説得してみてよ。君だって、ほっとけないと思わないか?素晴らしい素質があるよ。絶対に」「ん~」碓氷さんは迷ったように、声を出してから、首を振る。「やっぱり、ヤダ。蒼夜は僕だけのもののままでいいや」「おい、それでも役者か?目の前にある大切な才能を・・」じゃれるように言い合いを始めた二人から離れ、俺は外に出ることにした。さすがにあの場所で、楓に電話をかける勇気はない。←1日1クリックいただけると嬉しいです。