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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
前回「西郷どん」を語ってから、2ヶ月あまりすぎてしまいました・・・。続きと言うよりも視点を変え、原点に戻って「西郷隆盛」とは何者であったか・・?を考えることで「黒幕」たる人物であったかに迫っていきたいと思います。
龍馬と西郷の出会いは元治元年(1864年)8月中旬ごろです。当時は6月24日の池田屋事件から、神戸の海軍操練所に閉鎖の危機が迫っている状態でした。勝海舟の使者として京都で西郷と面談した龍馬の感想は、 「之を大きく叩けば大なる答えを見、之を小さく叩けば小なる答えを見る、余深く此言に感じ実に知言と爲せり」(「追賛一話」) 勝のおとっつぁんは、龍馬が「西郷はつり鐘のような男だ。大きく叩けば大きく響き、少なく叩けば少なく響く。」と表したことに対して「知言」だとほめているのです。 龍馬の目から見て、西郷の度量が深いことが感じられたのだと思いますが、同時に「底が知れない」部分もあったかと思います。 「底が知れない」以前に顔でさえいまだにはっきりとわかりません・・・。 西郷と言えば、一番思い浮かぶのが以下の肖像画だと思います。 以前にも書きましたが、これは、イタリア人のエドアルド・キヨッソーネが明治11年(1878年)、西郷隆盛が亡くなって1年後に描いたもので、西郷に似ていると言われていた弟の西郷從道の上半分と従弟の大山厳の下半分を合成したモンタージュ肖像画だといわれています。 これが似ているかと言えば、この肖像画をモデルに作られた上野の西郷さんの銅像の除幕式の際に、未亡人の糸子さんが、 「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」 と言ったことを考えてもあまり似ていないのではないか・・・と考えられます。 平成15年(2003年)8月に、大分県日田市で見つかった肖像画は以下のようなものです。 文人画家の平野五岳が描いた水墨淡彩画で、西郷に面会を申し込む内容の漢詩も書かれていること、肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織が、西郷南洲顕彰館で保存されている紋付き羽織と同じものであることから、直接本人にあった上で描いたものではないかといわれています。ただ、絵の場合は画家の癖や力量で印象が変わってしまう可能性もありますのでどうでしょうね・・・?。 西郷は「写真嫌い」だったいわれています。明治天皇にも写真はないと明言しているぐらいですから写真は残されていないと考えられます。有名なところでは「フルベッキの写真」というのもありますが、これは偽物なので論外です。しかし・・・。 漫画家黒鉄ヒロシ氏一押しという「写真」があります。 大正2年(1913年)松平春嶽公の手文庫の中から発見された皮製のアルバムにあった一枚です。 大久保利通、島津忠義、島津珍彦、小野熊三郎、伊藤博文らと写っている群像写真の一部なのですが、裏書きには「島津 西卿吉之助」の文字があるというのです・・。ただ、「郷」が「卿」になっていること、島津珍彦の娘明子の証言ではこの人物は「薩摩藩 侍医 小田原隅嘉」であるということで否定されているのですが、明子は証言時は晩年、撮影当時は9才ぐらいで証言に信憑性がないというのが黒鉄氏の主張ですが、どうでしょうね・・? 「うーとん」とか「うどめ」のあだ名で呼ばれていた西郷どんは、「巨目」であったことは確実なのですが、どうも顔がはっきりとわからないというのは、その人物を検証して行く上で非常にやりにくい・・・。 表情がわからないというのは、人物の全体像が想像しにくいんですよね・・・。 行動から推測していくしかないようですね・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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