スペードのA:見廻組暗殺説(その29:反論3)
谷の反論の2点目は暗殺者が騙ったという藩名についてです。「それで斬ったという今井は、松代藩のものであると言ふて行つたと云ふが、松代藩の者だなどといふてもウッカリ会ひはせぬ。皆用心して居る。」 今井が「松代藩」となのって龍馬に面会を求めたとしていることに対し、松代藩では会わなかったであろうとしています。「平生警戒を加えて居るから、松代藩など云ふて来ても会ひはせぬのでありますが、十津川の者は始終出入りして居りました。勤王論者が十津川に多かった。それで十津川と云ふて来たから取次も安心した。」 面会を求めた刺客が「十津川郷士」の名を騙ったために取次(籐吉)が安心をして通してしまったのだと主張しています。「さう云ふことで此人は松代藩ぢゃと云って行つたと云ふが、決してそうではない。十津川と云ふて行つたは余程巧みなるやり方である。取次の僕も十津川人と云から取次をした。」 さて、「松代藩」ですが、慶応2年からの藩主は真田幸民(~版籍奉還まで)、明治維新の際には、比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加しています。 明治維新からの動きをみてもある程度「倒幕」に移行する準備もあったかもしれません。 そして、龍馬の当時の警戒心は、あまりなかったであろうこと、そして今井自身は、「そして私共は信州松代藩のこれゝと云ふものですが、坂本さんに火急にお目にかかりたいと申した処」「四人ともいい加減の名を拵へて言ったのですから、今でも覚えていません。」 この部分は「今井信郎実歴談」は実に曖昧で「松代藩を名乗った。」といったかと思えば、「いい加減に名乗ったので、覚えていない。」といっています。 また、「兵部省・刑部省口書」では、佐々木唯三郎が先に、「松代藩とか認めある」偽名の手札を差し出したとあります。 まず「手札」は「兵部省・刑部省口書」では出したことになっていますが、「今井信郎実歴談」では、確認できません。そして、「兵部省・刑部省口書」では「松代藩とか認めある」とし、、「今井信郎実歴談」では「今でも覚えていません」といって本当に「松代藩」と名乗ったかどうかも疑わしい証言をしています。 と、すれば刺客の中の一人が「十津川」の郷士を名乗っていた可能性もありますし、龍馬の当時の警戒心のなさからすればたとえ「松代藩」を名乗ったとしても面会したのではないかと思います。 谷の表現に「十津川と云ふて行つたは余程巧みなるやり方である。」というのがあります。「松代藩ではなく十津川を名乗った方が巧妙な手口である。」という意味だと思いますが、この表現を見ても谷の思いこみが強いような印象を受けるのは私だけでしょうか? また、これが「松代藩」でなく「松山藩」であったらおもしろい・・・。当時、近江屋から別の宿への移転を考えていて、そのことを松山藩に依頼しています。もし、「松山藩」から面会人が来たら必ず龍馬は会っていたでしょう。 今井がいった「松代藩」が「松山藩」の聞き間違いであればつじつまが合うし、事情を知っている土佐藩士の中に内通者がいるということになりますが・・・残念ながらそんな説は誰も唱えていません・・・(-_-;)。 まあ、なんにせよ、この「松代藩」か「十津川」か?の論争では今井が犯人かどうかは決まらないような気がします。