ハートのA:薩摩藩黒幕説(その11:容疑者西郷吉之助7)
学生の時に教科書で見た(「習った」と書けないのは、明治の歴史についてはほぼ割愛されてしまって授業では聞いたことがないので・・・)「征韓論」についてのイメージは、おぼろげながら、西郷らが朝鮮に軍を送る主張をして、その論議に破れた・・・といった感じだったように思う。 このことにより、一部では「征韓論をつぶした大久保利通は平和論者である。」とする解釈もあるようなのですが、西郷の本質は「交戦論者」でだったのでしょうか? まず、大久保は明治7年の台湾出兵に賛成していますので、「大久保=平和論者」というのは疑問があります。「ラブ・アンド・ピース」とはいかなかったようで・・・(笑)。 当時、明治新政府の重要課題は、「鎖国」状態にあった朝鮮との国交樹立であり、それに対し朝鮮は「無法の国」という侮蔑的表現で日本商人の密貿易を取り締まったりしている状態でした。 さて、西郷の征韓論主張に関しては、疑問視する説もあり、大阪市立大学教授毛利敏彦氏は昭和59年の「歴史読本」で「征韓論は大久保利通の陰謀か」と題して、「西郷が公式の場で征韓論を主張した事実は見あたらない。日朝間の国交問題を解決するために、平和的に使節を派遣せよとの意見であって、朝鮮に出兵せよとはいっていない。」「十月十五日の閣議は、西郷の朝鮮派遣を満場一致で決定した。」「西郷が辞表を提出したのは、複雑な政局に絡まる政治陰謀に犠牲になったのであり、その陰謀を画策したのは伊藤博文であり、片棒を担いだのは岩倉具視と大久保利通であった。」としています。(だから「征韓論争」ではなく「明治六年政変」と呼ぶべきであると主張しています) だが、実際には7月29日の板垣退助宛書状で西郷は、「軍隊を即時に派遣すれば戦争となってしまう。それなら最初の「御趣意」とは違ってしまうので、まず使節を派遣すべきである。使節を派遣すれば朝鮮側が「暴挙」を起こすことは目に見えており「討つべき」名分も立つであろう。」と、していて「使節派遣-交渉決裂-開戦」という「征韓論」の筋書を立てていたと解釈できます。同様の論議は十月閣議に提出した「朝鮮派遣使節決定始末」にも見られます。 この件について毛利氏は、「板垣の支持を得るためのテクニックである。」と主張しているのですが、はたして・・・・?。 結局、十月十五日の閣議は西郷欠席で行われ、大久保のみ「延期論」を述べるにとどまり、他の参議の賛成で西郷の「即行論(征韓論)」は一度可決されたのですが・・・。 発病で執務不能となった三条実美の代理として19日に太政大臣となった岩倉具視が大久保と画策し秘密裏に「延期論」を事前に上納し、天皇に正当性を主張した上で、23日「閣議決定経緯(即行論)」と「延期論」を正式に天皇に上納し判断を仰ぐという形式がとられ、西郷は辞任、翌24日天皇は「延期論」を採択することになります。 西郷は、朝鮮問題を平和的に解決しようとしたのか?それとも戦争を仕掛けるために画策したのか?その真意は色々な説があり判断しかねるところではあります。私がただ一ついえることは、「西郷は死に場所を求めていた。」のではないかと・・・。 「征韓論」の主張では、あくまでも西郷使節の派遣であって、もしこの論が通っていれば西郷は丸腰で朝鮮に向かっていたはずです。かなりの確率で命の危険があったと思われます。その論を強硬に主張したのは「平和」か「戦争」かという真意の違いはありますが、ここが死に場所であると考えていたのではないでしょうか・・・。