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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で
南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。 <なきもの> この「なきもの」様を理解するためには、 「光と闇」に対する世界観を変えなくてはなりません。 人間が生まれて自然の中で育っていくうちに、自分が地球の表面での存在である ということに気が付いてきます。 そこには手で触れる実体があります。 目で確認できる物質があります。 この世は光で満ち溢れ、美しい自然に取り囲まれています。 結果的に、どうしても暗闇を恐れます。 段々と無意識のうちに、評価の格差が心の中に芽生えていきます。 光が正義で、闇はその反対のもの。 愛が正義で、憎しみはその反対のもの。 喜びが正義で、悲しみはその反対のもの。 勝ち組が正義で、負け組みはその反対のもの。 私のブログに興味を持ち、読み続ける人は変わり者です。 今列記した格差に疑問を持ち、世間常識に苦しめられている人でしょう。 ですから基本的に闇も憎しみも悲しみも負け組みも そんなに悪いもんじゃあないと受け入れているのではないでしょうか。 つまり闇を愛することが出来る人なのです。 しかしながらほとんどの人は言葉では「劣性」を認める奇麗事は言っても 本心では格差を恐れ、「闇」の役は引き受けたくはないのです。 これは当たり前のことで、その心情を責めているわけではありません。 競争社会で生き抜いていくのには、闇など愛している余裕などありません。 『闇』を愛しようとした子供を叱りつけ、『光』以外は不幸せになると 一貫して教え続けているのが現代です。 「始めに根元あり」 この考え方は、始めからなにかが「あった」というものです。 根元は「ひとつ」でもなく「あるでもなくでもない」「初めも終わりもない」 そんな存在です。 もし霊能力者がこの「根元」よりもっと前があると言い出したとすると 私はこの霊能力者には近づかないことにしています。 人間にはこれ以上は考えてはならない「限定」があると考えています。 この最初の根元を越えて想念するということは 歯止めの無い無間地獄とも言えるような無限の迷妄の世界に入り込みます。 非ユークリッド幾何学の世界では、想念によりいくらでも空間を想像でき 奇妙な形の宇宙を作り出しています。 これらの考え方で宇宙像を描き出そうとしている人は、 迷妄の世界に行ってしまったと思っています。 思考、想念とはいえ、人間にはその限定が無ければならにと神は言うのです。 それが「始めに根元あり」です。 この根元が感情を持った。 「我思う、ゆえに我あり」ですね。 そこで初めて「ない」と「ある」が発生したのです。 当然、「ない」を受け持たなくてはならない意思存在が生まれ 「ある」を受け持たなくてはならない意思存在が生まれたのです。 かむなからの現場神業を継続して経験していくと 大元の「ある」と「ない」が争ってしまった過去が見えてきます。 その争いは引き継がれ 「光と闇」「愛と憎しみ」「歓喜と悲哀」「男と女」などが 片方が相手をさげすみ、片方が自分にないものを欲しがった。 そんな子供のようなレベルの争いが「始め」であったようです。 これは人間が生まれてたどる道と同じと考えれば納得いきます。 すべてがお互いが幼過ぎたと言わざるをえません。 ですからどちらに罪があったのかは、判定できるわけはありません。 この辺まではなんとか理解に漕ぎ着けていた私ですが まさか本当に「なきもの」様が出現し、このような言葉を吐露されるとは 想像もしていませんでした。 あまりの驚きで高山病を忘れてしまいました。 翌朝までこのことをじっと考え続けていたことを思い出します。 皆様ももう一度昨日の日記で 「なきもの」様の言葉を再読されることを望んでやみません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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