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『愛』
「宇宙は愛で出来ている」とか「神は愛である」とかは、よく耳にします。 あなたはどんな愛を求めますか? 「かむなからの神」は私が望む愛などはくれませんでした。 国内はもちろん、海内にも行ってくれと無理難題を要求してきました。 少しは「病気治し」や「商売繁盛」などのご利益を見せてくれれば 「この神様は本物だ」と信者を集められ、お金も集まってくれるのに。 ところがやればやるほど体調不良になり、お金は消えていきます。 だれがこんな神様についていくでしょうか? それでも心のどこかで、いつかは神様はご褒美をくれる。 神様は愛情深くて、必ずや目に見える幸せをくれる。 人間は神の宝であると、つねづねおっしゃっている。 神様が苦労して早世に成功された人間には、愛情があるに決まっている。 どこかに絶対的な「甘え」があるのでしょうね。 しかし「かむなからの神」の『愛』はそんなものではなかった。 マイナスや暗闇も『愛』であるということを 現場神業という体験を通じて教えてくれたのです。 <光と闇> 私たち人間は、物質の塊です。 その元である素粒子は、なにもないと考えられるところから ビックバンにより創出された。 量子論によれば、今でも何もないとされる真空空間で 電子を始めとする素粒子は創成消滅を繰り返しているという。 その物質で出来ている人間の視座は、どうしても物質側にあります。 これは生きている人間としては当たり前の視座です。 この視座が、光と闇を考える時にも適用されます。 物質は光と同義であり、真空は暗闇といえます。 光は正義であり、暗闇は悪です。 それゆえ自分の心の中に「暗闇」を感じれば、罪悪感を感じていしまいます。 暗闇を「悪いもの」として隠そうとします。 それは光を「愛」とし、闇を「悪」と捉える視座を持つからです。 科学的、物理的視座を持てば 光は闇から押し出されて初めて、「輝く」ことが理解できるはずです。 「闇」がなければ「光」は存在しないのです。 「光があるからこそ闇がある」わけではなさそうです。 心の中にある「闇」を恥じる必要はないのかもしれません。 あるとき、神はこういわれたのです。 なあ、あなた、 本当に闇を愛せるか? それが出来たら旅は終わりだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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