カテゴリ:エッセイ
先日、地元のウォークの会で大阪市立長居植物園へジャカランダの花を見に行った。途中、JR天王寺駅で、環状線から阪和線の各駅停車に乗り換えた。最近は都心に出かけることも少ないので、街の人ごみの中を歩くだけで疲れてしまう。幸い当日は十時を過ぎていたので、通勤のラッシュには出遭わなくて済んだ。 ところが、駅では列車の発着を知らせるアナウンスや、電車がホームに出入りする際に流れる注意喚起のメロディーなど、ひっきりなしに音が流れている。駅ってこんなに騒がしかったのかなあ。それもかなりひどくて、耳を覆いたくなるほどだ。 騒音といえば、本田勝一という人が騒音について書いた本のことを思い出した。読んだのは、現役で通勤していた頃だからもう三十年も前のことである。当時、この著者の作品を集中して読んでいた。しかし以前のこと故、本の題名はもちろん、内容についてもかなり記憶が薄れている。 そんなええ加減な記憶をもとに、この拙文を書いている。 日本の都市はやたらと不要な音が多く、騒がしすぎるという趣旨のことを書いていた。そのことに苦情を言わないのは「日本人が騒音鈍感民族である」からだ、とも。 対極にあるのはドイツの鉄道で、発車時刻になれば何のアナウンスもなくドアが閉まって発車する、というのである。日本人は過保護であり、ドイツは自己責任というお国柄からくるという意味のことも書いてあったと思う。 ドイツの鉄道のことは、本を読んだ何年か後のドイツ旅行で実際に体験したが、全く著者の言う通りであった。ただしベルリンの地下鉄は少し様子が違って、駅のアナウンスがあったような記憶もあり、何とも頼りないことである。 「エスカレーターでは黄色い線の内側に立って手すりをお持ちください」 「〇時〇分発〇〇行き急行は〇番線から発車します、黄色い線の内側に下がってお待ちください」 さらに車内放送でも、次の停車駅はもちろんのこと、降車時にどちら側のドアが開くかまで、親切丁寧にアナウンスをしている。親切と言えば親切だが、余計なおせっかいだともいえる。 要するに著者の訴えたかった「日本人は騒音鈍感民族である」という事実は、三十年経った今も少しも変わっていないということになる。 今回、このようなことを感じたのは、最初にも書いた通り、久しぶりの都心ターミナル駅体験であったからであろう。現役のころの騒音に対する「馴れ」がいつの間にか消えて、先入観のない真っ白な頭で、駅のホームでの状況を受け止められたのだと思う。 最近、何かの拍子に昔のことを思い出す機会が増えている。先日も朝日歌壇の短歌で「四万十川」という語句から、二十数年前の四国遍路で四万十大橋を渡ったときの、橋の上から眺めた投網の光景を思い出したばかりである。このように過去のことに思いが行くのは歳のせいに違いない。(2024年6月) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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