『花咲き山』に私の花も咲かせたい・・・
先週の土曜日以来、涙腺が壊れて泣いてばかりだった私。「泣いていいんだよ」というコメントを読んで泣き、励ましのお言葉にも又涙。。。そんな時に、むかし娘達に何度も何度も繰り返し読み聞かせてあげた、ある童話を思い出しました。知っていらっしゃる方も多いと思いますが、この童話は、私の大好きなお話の一つ。娘達も『ねぇ読んで』と何度もこの本を私に手渡したものです。何度読み聴かせても、何とも言えない感動に心を揺さぶられ、温かい気持ちになって暫しの間、皆無言で話の内容を噛みしめていました。そして、日々の生活の中、『お母さん。今、私の花が咲いたかも・・・ね』という言葉が自然と娘たちの口から出るようになりました。私の涙でも、一輪の花を咲かすことが出来たなら・・・今改めて読んでみても、滝平二郎さんの切り絵の素晴らしさを含め、このお話の素晴らしさに感動します。 「花咲き山」 斎藤藤隆介さん作・滝平二郎さん絵おどろくんでない。おらは この山に ひとりで すんでいるばばだ。山ンばと いうのも おる。山ンばは、わるさを すると いうものもおるが、それは うそだ。おらは なんにもしない。あやは、山菜取りに山へ入り、やまんばのいる山奥まで来てしまいました。すると一面、見たこともない、きれいな花が咲いています。その花が、どうしてこんなにきれいなのか・・・やまんばは、その訳をあやに話すのでした。この花は、ふもとの 村の にんげんが、やさしいことを ひとつすると ひとつ さく。あや、おまえの あしもとに さいている 赤い花、それは おまえが きのう さかせた 花だ。あやの家は貧乏で、祭り用の着物を、あやと妹のそよの二人に買ってやることは出来ません。あやは自分はいいから、そよに買ってやってくれと母に言ったのでした。そして今、咲きかけいる青い小さい花。それは双子の赤ん坊の兄の方が、母親に抱かれたいのを我慢して、弟に譲っている為に咲いていると・・・兄は目にいっぱい涙をためて辛抱している・・・その涙が花にかかっている露だと。自分の事より人の事を思って辛抱すると、その優しさと健気さが、花となって咲き出す。それがこの花さき山の花だと、やまんばは言いました。そして優しさは、花だけでなく山もつくった、と。やさしいことを すれば 花がさく。いのちを かけて すれば 山が うまれる。うそでは ない、ほんとうの ことだ・・・。山から帰ったあやは、やまんばから聞いた話を皆にしましたが、誰も信じてはくれませんでした。でもあやは、その後時々「あっ、いま 花さき山で、おらの 花が さいてるな」って思うことがあるのでした。斎藤さんの初版「ベロ出しチョンマ」(昭和42年・理論社)(角川文庫「ベロ出しチョンマ」)の扉に、斎藤さんはこんなふうに書いています。 『はじめに おとなになればなるほど 童話がなつかしくなる心 ---そんな心の 父母たちに 若者たちに この本をささげます。 そして、小さな人たちには、 あなたから 話してあげてください。』子どもではなく、大人の人達に読んでもらう事を前提としているんですね。あなたは、「はは~、そんなことぐらい、どうってことないじゃん!」と思っているでしょう?でも実はこの童話集、最後まで読み終わった時に、改めてその謎、斎藤さんが言いたかった言葉の重さを、読者は知ることになるのです。【号外】やまねこ新聞社 がこの童話の話題を取り上げています。http://blog.livedoor.jp/yamaneko0516/archives/14638224.html#尚、この本は、講談社第1回出版文化賞(ブックデザイン部門)及び1974年度モービル児童文化賞受賞しています。 ★この花咲き山の作品は、実際には、一冊の童話集の巻頭に意図して配されたものだったのです。プロローグとして。ですから本来、この作品はあとに続く2話(あるいは27話)の作品に関わった核の意義を込められた作品なのです。斎藤童話のすべての作品を貫くものの精神が語られていると言っていいのです。とても大切な作品なのです。最後の話「トキ」で斎藤の訴えたかった本意を理解できるでしょう。 【送料無料】ベロ出しチョンマ価格:1,260円(税込、送料別)