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カテゴリ:危機の時代を生きる
常識が崩れゆくその先に より可能性のある世界を インタビュー 独立研究者 森田 真生さん 価値観の転換 ――森田さんの近著『僕たちはどう生きるか』は、コロナ禍での思索や気付きが日記とともにつづられた一冊です。「僕の一日は、家にいる生き物たちの世話から始まる」という印象的な一文から始まります。
僕にとって、パンで見苦(世界的大流行)による変化の一つは、人間以外の生命と過ごす時間が増えたことでした。川で捕まえてきた生き物に餌をやり、植物や虫たちの様子を観察する。これが子どもたちとの日常になりました。 以前の僕は、講演やトークライブを行うため、国内外を忙しく旅していました。研究に没頭し、新しい概念を生み出して、遠い世界の風景を切り開くことが価値だと思っていた。 それがパンデミック以後はイベントが中止となり、今のような日常を始めてみると、自分がすでにいる場所に、喜びも楽しみもあることを再発見しました。 本では、こうした価値観の転回を2020年3月から書き始めていますが、考えてみると、僕にとって重要な価値観の回転となったのは、16年に長男が誕生したことでした。 かれは生まれた直後に大きな手術をして、病院のNICU(新生児集中治療室)には入りました。こちらが手を差し伸べない限り、生きられない生命を目の当たりにした時、前へ進もう、遠くに行こうと数rのではなく、目の前にある生命と向き合う以上に大切な時間はなかった。 毎日病院に通いながら、僕が一番願っていたのは、いつか息子と一緒に空を見ることだったんです。彼は生れてから一回も、空を見たことがなかった。無事に退院できたら、空というのがあるんだよと教えてあげたいと思いました。 だから今も、元気に成長した息子と一緒に空を見ると、喜びを感じます。空は誰でもみあげられるものかもしれません。でも、その当たり前がどれほどあり難いかを実感しています。
子どもの視点で ――当たり前と思っていた日常が、さまざまな存在に支えられている。そのことを、コロナ禍で多くの人が感じてきたと思います。
順調に作動していたはずのものが突然止まった時に、違う感覚が開けてくることがありますよね。僕にとっては息子の誕生その最初の転回でしたし、今回のパンデミックもまた、似た経験になっています。 最初に幼稚園が休園になった時、自宅を〝幼稚園状態〟にしました。生き物を飼い、植物を育てて、野菜を栽培するようになると、子供のまなざしに戻っている自分がいた。 その視点で世界を見ていくと、例えば、理科の授業で学んだ「冬の大三角形」を、本当に空を見上げて探したことはあったか。植物の道管や師管(水や養分の通り道)を知識では知っていても、実際に根や茎を斬ってルーペで見たことはあったか。頭では知っている物事が、見えていなかった自分に気付きました。 地球を何周もするくらい移動していた自分が、歩いて回れる小さな庭の範囲内で、今まで見落としていたものを見つけることに喜びを感じた。それはただ知識が増えていく喜びというよりも、一つ一つの事柄が、いかに相互に依存しているかを知る面白さでした。 石垣のくぼみの水の流れに沿って苔の配列ができているように、一つのものが、いろいろなものとつながっています。身近なところから遠くまで、関係性の実感が広がっていく。その実感が、現在があることのありがたさに気づかせてくれるのだと思います。
多様な生命との関係性の自覚が 一人一人の視野を無限に広げる
独立研究者として ――森田さんの専門は数学ですが、「数学者」ではなく「独立研究者」として活動されています。
僕が数学の研究を志したきっかけは、数学者の岡潔(1901~78)との出会いです。岡先生は偉大な数学者ですが、最晩年は、人間をどう理解し、人間を取り巻く宇宙をどう描くかといった、数学の枠に閉じない研究をしていました。 現代の数学はヨーロッパの哲学に根差しています。その哲学は「人間だけが知性を持っているから偉い」「草花や木々や鳥には声がない」といった、特殊な前提を持つものです。 岡先生は、日本の思想や伝統に根差した形で、数学を研究することはできないかと考えた人でした。例えば短歌には、五七五七七という制約があります。人間が多くを語れない分、鳥や山の木々の〝声〟を引き出すんですね。「世界の語りの中心は人間ではない」といった、近代ヨーロッパの哲学とは別の発想に基づいて、岡先生は未来人間像や宇宙像を探究していた。 僕はその姿に憧れて、独立研究者として歩み始めました。その中で、息子の誕生やパンデミックといった出来事があった。ある意味で必然的に、研究対象が数学から、人はどう生きていくのかといった方向にさらに広がってきています。
関心を寄せる ――岡先生のお話は、数学に限らず学問全体に、そう向き合うべきかという点に通ずると感じます。
自分の頭で考えて、判断し、動いて見る。それが学問の前提であると僕は思います。間違えたり、失敗したりもするわけですが、そうして気付いて修正をしていくなかにこそ、学びがあるのではないでしょうか。 パンデミックのような予想外の事態に直面すると、自分はどれだけ自分の頭で考えていたのかと考えさせられます。コロナについては誰も完全な知識を持ち合わせていない以上、自分で考えて動いて見て、間違えたら軌道修正していくといったことを、繰り返していくしかない側面もある。 正解がない状況で僕たちができるのは、「関心を寄せる」ことだと思います。 環境問題について、「熱帯雨林が大変だ」「二酸化炭素を減らさないと」と語るとき、僕たちは本当に、人間以外の生命に関心を寄せているのか。中傷化された数字の話にしていたり、ただ漠然と「環境を守らないと」と言っているだけになっていないか。 問題に関心を寄せ、注意を向けていくと、正解というよりも、より「精緻な」認識が浮かび上がります。 例えば、苦しんでいる人を前に、〝こうすれば解決しますよ〟という正解をパッと出すことは、ほとんどの場合できません。しかし背中をさすって、呼吸を合わせ、何が苦しいのか、悲しいのかと関心を寄せていくと、自分もその苦しみが共有できたりして、より精緻に、相手の感情や置かれた状況が理解できます。 人間は限られた知能しか持たない以上、「正しさ」は簡単に望めない。でも関心を寄せ、注意を向けることで、理解の「精緻さ」を高めることは、いつでも可能であると思うんです。 気候変動でもパンデミックも、問題の根っこは、人々が関心を寄せてこなかったことではないか。関心を寄せずにいたからこそ、不必要に木々を伐採し、生き物の住む場所を奪ってきた。そうして作りだした社会に適応する形で、感染が拡大しているわけです。
最後の自由 では、何に関心を寄せるのか。僕は、それが僕たちの最後の自由じゃないかと思っています。 ジェニー・オデルは著書「何もしない」の中で、地球の有限性が明らかになった現代は、資源を奪い合うのではなく、人間の意識を奪い合う時代だと述べています。ユーチューブを何秒間閲覧したとか、リンクを何回クリックしたという風に、注意をどれくらい搾取できるかが、資本主義の最前線になっている、と。 しかし、人間は本来、異なる関心や注意の持ち方ができる生き物で、それは外部からコントロールするのは難しいものです。だからこそ、「自分が何に注意を向けるか」に、最後の自由があると考えています。 僕が関心を寄せているのは、当たり前が崩れていってしまう危機を、新しい可能性が開けるという感動を伴う経験に、読み替えられないかということです。 数学は、それを非常に中傷的な領域でやってきました。幾何学は乗義とかんパスでやると信じられていた時代に、デカルトが、数式でもできることを示した。1000年以上、常識とされていた数学の基盤が壊れたわけです。でもデカルトは、それはそれで数学であると正当化できるよう、新しい哲学を準備していた。だから数学は崩壊せずにより可能性のある世界が開けていったんです。 デカルトの時代みたいなラジカル(急進的)な常識の転倒は、数学のような抽象的な世界でしか起きないと、僕は思っていました。ところが今、現実に、地球環境はとてつもない規模で変化していて、自分はこの先どう生きていくのか想像はつかない。数学の世界に特有だと思っていた未知の感覚が、実現できてしまう時代に入っています。
異なるスケール ――そうした今を生き、不確実な未来を生きる私たちは、どんな思想や心構えを持つべきでしょうか。
人間は、ものを見るときに、一つの尺度に閉じ込めようとします。このウイルスは感染症を起すものだというふうに、人間にとっての意味で全て閉じ込めてしまう。しかしウイルスはウイルスのロジックを持っていますし、人間にとっては危機であるウイルスも、他のほとんどの生物には、何の脅威でもありません。 同じことでも、異なる存在、異なるスケールにおいてはまったく別の意味を持つ。 だから物事の意味を、一つの尺度に閉じ込めてしまうわけにはいかない。同じことが、別のスケールではどんな意味を盛るのか。これをつねに創造し続ける姿勢を、環境哲学者のティモシー・モートンは「エコロジカルな自覚」と呼びます。 パンデミックは、複数のスケールを同時に考えることを私たちに求めてきます。ウイルス、人間、社会といった異なるスケールの問題が絡み合い、それらに同時に向き合わなければならない点に難しさがある。だからこそ、「エコロジカルな自覚」が大事になると思います。
――創価学会の牧口初代会長は、身近な郷土観察から、瀬系へと視野を広げることを訴えた地理学者でした。目の前の「独り」「一つのものごと」に関心を寄せることから、その先の道を大きく広げていく実践を、私たちも大切にしています。
「無限大の宇宙」という概念が、かつてなき大きな衝撃を与えました。でも考えてみると、果てしなく広い宇宙のほとんどの場所で生命は存在できず、人間は、小さな惑星の表面にへばりついて生きているわけです。 しかし、この閉じた地球の表面で、無数のスケールにわたって関係性がむすばれていることに気付くと、果てしない世界の広がりが現れてくる。外へ向けた拡張から、「関係性の網の目」へと広さの観念を変えることで、自分のいる場所がとても広く感じられます。 僕たちはそうした感覚を獲得しなければいけないと思っていますし、目の前の「一人」「一つの物事」に関心を寄せる取り組みも、今いる場所の広さや豊かさを、より精緻に理解するためのものではないでしょうか。
失敗は共有財産 ――世界や社会が複雑化して正解が見つけにくいコロナ禍では、効率性や生産性ばかりに気を取られるのではなく、答えが出ない事態とも、付き合い続けていく重要性を感じています。
物事が、「はかどる」ことに重きが置かれていた価値観が、見直された2年だったと思います。 日常は、御ムスを変えたり、掃除をしたり、ご飯を作ったりというような、少しも前に進まない反復的なケアの営みがあります。その上で、多くの仕事がはかどったり、はかどらなかったりするわけです。 生産的だと信じるものの多くが、生産性で測られない営みによって支えられていることを、僕たちは学び始めています。 「万物は揺れている」。これは科学における重要な世界像ですが、コロナ時代を生きる上でも鍵となる思想だと思っています。 例えば、じっとしているように見える机も、ミクロのスケールでは激しく揺れています。あるいは、人間は呼吸をしますが、さっき吸ったと思ったら、次は履いている。二つの間で揺れているわけですね。 同じように、あらゆる問題に対しても、一生懸命考えて答えを出し、ある状態に落ち着こうと思う必要はないのではないか。一つの結論に固定するよりも、振動して、行ったり来たりしていること自体が、思考が存在し、生きているあかしだといえるからです。 「It depends」という英語の表現があります。「場合によりけり」という意味です。すごくいい言葉だと思います。 登校を拒否する子供がいる。僕たちはすぐに「登校拒否」という枠にはめようとします。でも、どうやら昨日は学校に行ったようだ。「じゃあ、登校しているの?」「ううん、明日は行かない」。揺れていていいんです。その方が健全だと僕は思います。 「depend」というのは「依存する」という意味です。何に依存するのかというと、状況です。いまはAだけど、時にはBかもしれない。状況によりけりだよ、と。それを一貫性がないと批判するのではなく、万物はそうやって動き続けているんだよと、理解し合えばそれでいいのではないでしょうか。 ひとまず答えを出してみて、失敗や間違いがあれば共有し、修正する。そこから新しい認識が生まれていく。間違えたという「共有財産」が生まれるのは、素晴らしいことです。 そうした挑戦や試行錯誤を、多様な形で許容し合える文化が、もっと社会に広がるといいですね。それが不確実な時代に対する根本的な対策であると、僕は思います。
もりた・まさお 1985年、東京生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」囲碁の言葉と生命の可能性を追求している。著書に『数学する身体』(2016年に小林秀雄賞を受賞)、『計算する生命』、『僕たちはどう生きるか』、絵本『アリになった数学者』(脇坂克二・絵)、随筆集『数学の贈り物』、編著に岡潔著『数学する人生』がある。
【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.3.15 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 6, 2023 05:51:50 AM
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