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July 8, 2023
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カテゴリ:文化

揺れ動く人心 綴られた『徒然草』

 

 作家、日本文学者  林 望   

 

人間は、どんなに立派な人であろうとも、すでに整然として狂わぬというものはないものだ。一切誤りを犯さぬ人も居はせぬし、生涯ピリッともブレない人もあるはずがない。いつも何かに悩み苦しみ、喜怒哀楽に揺れ動き、矛盾を孕んで生きていくのが人間というものだ。そういう世の実相を物語に書けば、『源氏物語』のような世界となり、心の赴くところ筆の運びに随って書いていけば『枕草子』や『徒然草』のような随筆となる。随筆の面白さは、ことにより時に随って、矛盾し揺れ動く人心を、自由自在に書き綴っていくところにある。一つの思想や哲学に凝り固まったような書物は、正直なところ、堅苦しくて読むのに苦痛を感じるというものだ。

 

悟道や通俗、老荘的な思想など

ありのままの言葉が語りかけてくる

 

『徒然草』を書いたのは、兼好法師という人だが、この人の詳細な閲歴などはよくわかっていない。ともあれ、兼好という坊さんのような俗人のようなひとが、あるときはばかに悟道に徹したようなことを言うかと思えば、まるで通俗的なことも平気で書く。

第三段に、いきなり「万にいみじくとも、色好まざん男は、いと寂々しく、玉の巵の当なき心地ぞすべき」と言い放つ。色事などは悟道の妨げ、と説くのが仏教の教えであるはずなのに、その正反対なことが書いてあるのを読むと、読者は思わず意外の感に打たれて、つい彼の世界に引きずり込まれる。で、この先は拙著『漢訳徒然草』の現代語訳で紹介すると、こう言い続けるのである。

「すなわち、露霜に濡れてよれよれになりながら、あちらこちらと女の許へ惑い歩き、親の諫めや世界の避難を思ってはおろおろし、ああしたらよかろうか、いやこうしたがよかろうか、などと思い乱れて、しかしその結果として、どこの女の闇にもいかずに一人寝をする夜ばかり多く、展転反側して微睡むことすらできずに恋に心をくるしめている、そんなのが風情ある男というべきであろう。いやいや、色好みと申しても、ただただ色事に溺れてばかりなんてのではなくて、仕事なども立派にやっているのだが、それでいて『あの方はあれでなかなか隅に置けないのよねえ』と、おんなたちにおもわれるというようなのが、男としてぜひこうありたいという姿であろうな」

と、こういうまさに隅に置けぬことをぬけぬけと書き放つ。ここにおいて、我ら世俗世界の読者は、思わず膝を打って、兼好に「いいね」を一つという気持ちなってしまうのである。

ところがまた、コテコテの道学者流儀なことを平然と書きもする。第三十八段に、「名利に使はれて、しづかなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ」と書き出す長い一文は、すぐれて悟り切ったような口ぶりで、名誉も財物も取るに足らぬものだと斬り捨て、ついでに「智慧出ては偽りあり、才能は煩悩の増長せるなり」などと言って、「まことの人は智もなく、徳もなく、功のもなく、名もなし」と老荘思想の聖人のようなことを書きつづけもする。

また色好みを称揚するようなことを言っているくせに、第百九弾には「妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ、いつも独り住みにて、など聞くこそ、心にくれけ」とも書きつける。読者は唖然としながら、つい読まされてしまうのだが、考えてみると、人の心というものは、しかく矛盾に満ちて、ああでもないこうでもないと揺れ動くのが実相なのであってみれば、これをありのまま書き綴る精神にこそ健康の真骨頂があって、それゆえに、世俗に悶々たる私どもの心に強く訴えかけてくるのである。考えてみれば、無謬の聖人君子なんて、面白くないじゃないかと語りかけてくるような本、それが『徒然草』である。一読の価値がたしかにある。

(はやし・のぞむ)

 

 

【文化】公明新聞2022.3.20






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Last updated  July 8, 2023 05:12:39 AM
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