|
カテゴリ:文化
ゴッホ「心の闇」を再考する 作家 大野 芳 発狂、鎮静を繰り返しつつ 不気味な構図の名画を遺す フィンセント・ファン・ゴッホ(一八五三~九〇年)ほど、多くの本に書かれ、映画になり、作品がオークションに登場するだけに世界を騒がす画家はいない。 二〇一八年九月末、意を決した私は、書記の名画「ジャガイモを食う人々」から晩年の「ひまわり」「夜のカフェテラス」「ローヌ川の星月夜」など数々の傑作を残したゴッホの足跡をたどる旅に出た。 しかし半月間、三千㌔の疑似体験では、ゴッホの「心の闇」に迫れず、結局、彼が書きのこした膨大な量の「全書簡集」に戻るほかなかった。 一八七二年九月末の第一信(十九歳)から死の直前、一八九〇年七月末(三十七歳)までの十八年間に書いた手紙は、八百十九通が現存している。弟テオ宛が最も多く六百五十一通、テオとテオの妻ヨハンナ宛が八十三通、その他が八十五通だ。しかも、画家になる前の画商時代から大切に保存された事実は奇跡にちかい。それだけ残す価値があったからだ。 誤解を恐れずに言えば、幼時に知的障碍者となり、けんかに明け暮れた画家山下清が、貼り絵に出会った逸話に酷似している。精神病理学者・式場隆三郎や梅原龍三画伯らの支援を受けて画家として開眼した山下自身にも、「山下清の放浪日記」があり、関係者によって数々の気候や名言が語られて伝説化した。健常者ならば話題にもならなかったはずである。 ゴッホもまた、おなじく心を病んでいた――。 オランダの片伊田舎ズンデルとの教会に生まれたゴッホは、六人兄弟の長男だった。十一歳の頃に描いた「農家の家と納屋」のスケッチは、画家の片鱗を覗かせている。 しかし、〝複雑系〟の心を持つ問題児だった。異常な行動を心配した両親は、精神病院に入院させようとするが、ゴッホの頑強な抵抗にあって断念。のちにてんかん症とか統合失調症といった病名が付けられたが、まるごと受け入れたのが、四歳下の弟テオである。 一八八一年、二十八歳になったゴッホは、社会の底辺に生きる労働者や農民を猛然と描き始めた。東京富士美術館が所蔵する「鋤仕事をする農婦のいる家」(一八八五年)は、この習作時代の作品だ。パトロンは、パリで画商になっていたテオである。 オランダからパリ、アルル、サン=レミ、そして終焉の地オーヴェル=シュル=オワーズに至る十年間、発狂、鎮静を繰り返して油絵約八百六十点、水彩百五十点以上遺している。最後とされる作品「カラスのいる麦畑」は、三本に別れた道が麦畑に消え、その低空をカラスの群が舞う不気味な構図。「心の闇」そのものだ。 一八九〇年七月二十七日、拳銃で自殺を試み、二十九日に三十七歳の生涯を閉じた。その死後、ゴッホの作品は、二十世紀の芸術に多大な影響を及ぼすのである。 (おおの・かおる)
【文化】公明新聞2022.3.25 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 18, 2023 05:07:10 AM
コメント(0) | コメントを書く
[文化] カテゴリの最新記事
|
|