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カテゴリ:文化
韓国文学を知る 桜美林大学教授 鄭 百秀 ここで問題になる他者は、予想不能なまったくの他者ではない。自己とほぼ同じ欲望を持っているがゆえに、模倣し合い、競い合い、またときには互いに支配、差別を受けたりする相手のことである。だからこそ韓国人―韓国文化、韓国歴史にしてもかまわない―は日本人にとって「我らの内なる」ものの他者なのだ。 最近刊行された二冊の韓国文学論集は、この頃流行の韓流文化コンテンツをただ消費するだけでなく、韓国近代文学の歴史の深層を理解することによって、韓国人という我らの内なる他者と真に交流していくことを、読者たちに強くすすめる。 まず、川村湊著『架橋としての文学・日本・朝鮮文学の交叉路』である。この本全体に貫かれている他者認識の特徴は、日韓文学の間を教会ではなく、「交叉路」として捉えるところにはっきり表れる。日本文学と朝鮮文学は、境界の彼方と彼方でそれぞれ異なる言語文化として歩んできたわけではない。両国の文学は、「交叉路」を行き来する列島と半島の文学者たちのダイナミックな交流によって成立、展開しているのである。
「我らの内なる他者」を見る 歴史の深層を理解し真の交流を
著者は、明治大正期の移植文学から始まって、韓国近代文学の形成期の李光洙らの文学、そして植民地期と開放以降の南・北の朝鮮文学の展開をへて、今日の韓国女性文学に至るまでの作家論、作品論を通して、日韓の文学と文学者による交流の様相を豊かな資料紹介とともに見事に解説してくれる。 一方、斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』は、日本で韓国文学の翻訳策が大衆化された二〇一〇年代の時点から、植民地支配が終わった一九四五年のほうに時代を遡りながら、たとえば、セウォル号事件、経済危機、光州民主化運動、そして朝鮮戦争といった、解放以後急変してきた韓国の社会状況を背景にする小説作品を取り上げ、主人公たちの生き方、思い方を、「我らの内なる」他者の経験して読み解いている。 著者は問う。貧困の、弾圧の、挫折の、そして危機の時代をくぐり抜けてきた韓国文学の根底にあるものは何か。韓国の人々、特に韓国の女たちは何を欲しているのか。はたして彼らは自分達の欲望の実態を知っているのだろうか。こうしたラジカルな問いに対し、著書は、直接的な答えを示す代わりに、韓国小説の日本語翻訳という精緻な読書体験に基づく、「個人的」な感想を述べる。その発想には、読者たちが自らの別の問いと別の新しい発見を見出せる数多くの手がかりが含まれている。 この二つの著書は、韓国という他者を知ることによって「我らの内なる」精神の成長を追求する日本人読者にとって、誠実な道案内になるにちがいない。 (チョン・ベックスー)
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Last updated
February 6, 2024 05:30:44 AM
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