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カテゴリ:コラム
読みなれた本の感覚 早稲田大学名誉教授 中島 国彦 東北大学附属図書館には、夏目漱石の旧蔵書を収めた「漱石文庫」がある。早稲田の旧宅「漱石山房」にあった蔵書を戦時中疎開させたもので、おかげで消失を免れたものだ。24歳の漱石が購入して読んだ『百家説林』という随筆集の現物を調べに、40年も前、仙台に出かけた。江戸時代の随筆を集めた、全10冊のシリーズだ。漱石は律儀に、「明治廿余年九月六日平凸凹」、「十二月五日那津免金之助」などと購入日付を書き入れていた。「平凸凹」は。あばた面の自分をそう名乗ったものだ。漱石は、その本を手放さずに、長く手元においていたのである。漱石が手にしていた本を開く体験は、格別だった。 若き日に紐解いた作品は、立派な全集ではなく、この時期持ち歩いた文庫本で読むほうが、作品に没入できる。文芸評論家、高橋英雄さんの著作集全8巻が完結した。最終巻「読書随想」は、本をめぐる随想だ。戦後、旧制一高でドイツ文学に興味を持ち、東京大学に進んだが、混乱期になかなか呼ぶべき本が手に入らない。図書館でリルケの詩の原文を筆写し、当時出ていた宋元銭所で小林秀雄を読んだという。後年高橋家は本の山となるが、この作品は、最初に読んだあの本で読み返したいと、仕事中でも探されたそうだ。朝のNHKテレビドラマ「ちむどんどん」では、登場人物が中原中也の詩を朗読する場面が何度かあった。表紙に題名が右から左に「中原中也詩集」と記された、1947年刊の創元選書版だった。 私の家の本棚の片隅から、新潮文庫のルソー『孤独な散歩者の夢想』が出てきた。高3になる直前の修学旅行の時、京都の新京極裏の古本屋の店頭で買った本だ。表紙を開けると、「昭和三十八年三月京都にて」とある。高校生には少しむずかしかったが、この1冊は、私にはひどく懐かしい。
【言葉の遠近法】公明新聞2022.10.19 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 21, 2024 05:19:45 AM
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